いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】(当時の)スター批評家二人が考える「批評の意味って何?」 東浩紀×大塚英志『リアルのゆくえ』

 

リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)

リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)

 

 

新旧のおたく/オタク批評家の中でいえば、(2009年当時の)ネームバリューではおそらくトップクラスの東浩紀大塚英志の二人が、2001年、2002年、2007年、2008年と不定期に行った対談集。

 

動ポモ2(東著『ゲーム的リアリズムの誕生 ~動物化するポストモダン2~』)を読めばわかるが、東は大塚の批評や理論に多分にインスパイアーされている。がしかし、この本では二人の考え方の違いが露骨に現れている。

 

自称「戦後民主主義者」の大塚が、東に対してくどいほど繰り返して問うのは、「批評家の責任」と「公共性」(いわば万人共通の“リアル”)。要するに、近代文学とその批評によって形作られてきた社会の公共性が崩壊した現代において、新しい形の公共性を構築することが、批評家とその書くものに課された責務ではないのか、ということだ。新しい世代の批評家の怠惰に対し、大塚のその疑問とも怒りともつけがたい感情が、おそらく世代きっての論者である東にもろにぶつけられる。


しかし大塚に対して東は、ここまで島宇宙化が進んだ現代ではそんなことは不可能だとやんわりとかわし、これからは公共性に代わり、どうすればリソースが均等に再配分されるかという技術的、システム的な問題になるだろう予期する。批評にはもうリアルを構築する力はないと言い切るのだ。すると今度は、大塚がじゃあなんで批評するの?と食ってかかるのだが、東は「友達を増やしたいから」と返す。

 

その後も二人は手を代え品を代え、同じような問答を繰り返す。大塚がたびたび、「ここで対談を終わらせてもいい」と言って東を挑発するが、本当にそこで対談は終わってよかったりする。繰り返しているだけなのだから。

 

ところで、この対談集自体は、近代的なのだろうか? ポストモダン的なのだろうか?
近頃のお互いを褒め称えるだけの生ぬるい他の対談集に比べれば、ずっと闘争的でありその意味では近代的である。

 

しかし、互いの話が通じていないという意味では、そして、無駄に長々と量だけがかさばる本になったという意味では、ポストモダン的でもある。

 

※例によって、過去のレビューを整形した上での再掲載である。最近、1200件を超えていたアマゾンレビューが謎の大量粛清にあい、3件にまで減ってしまった。上記レビューも削除されたものの一つ。レビューはあくまでも当時のぼくの「読んだ感想」であって、必ずしも現在の心境や、現在の状況を反映しているわけではないが、Gmailの底で下書きとして反永久的に眠らせておくのは、創造主としてあまりに忍びなく、ここに再掲する。