いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

日本語「好き」の守備範囲が広すぎて暴走する問題について

映画の字幕において「I like 〇〇〇」が出てくると、訳者の腕の見せ所だ。

例えば、フルCGアニメの映画「ペット」において。最初はいがみ合っていた小型犬のマックスと大型犬のデュークが意気投合するシーン。

デュークが、マックスについて「I like him!」と明かすのだが、邦訳では「いい奴だなって(わかった)」となっている。これは標準的な意訳だ。

 

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動詞「like」の直訳はいわずもがな「好き」だが、ここで「好き」と訳すとちょっとニュアンスが伝わらない。ちなみにマックスは映画の最後で、彼を片思いするメスのポメラニアンギジェットと結ばれる。

 

 

ここでいう「like」はおそらく、字幕のように「いい奴だとわかった」とか「こいつとは気が合うな」と訳すのが適当だろう。

「like」とはそれぐらい、日本語の「好き」の一言では収まらない親愛の意味が込められており、もちろん「love」とも全然意味が違う。ちなみに言わずと知れた「make love」はセックスを意味する。

 

英語のlikeとloveの間にはある明確な違い。にもかかわらず、日本語にはこれに相当するのが「好き」もしくは「愛してる」しかない。このことがいかに生きるのに不自由なのかをみなさんは気づいているだろうか?

ここで読者は「そんなことはない。お前がここまで書いてきたとおり『いいやつだな』『お前とは気が合うよ』と言えばいいじゃないか」となるだろう。

そういうことではない。likeほど気軽に、ダイレクトに、「お前いいやつだな」「お前とは気が合うよ」というニュアンスが集約した、性的欲望を誘発させない言葉が日本にはない、といいうことの不自由さが問題なのだ。いうならば「『好き』を1/2ぐらいを伝える言葉」が日本語にはないのだ。

日本語は表現力が豊かだというステレオタイプがあるが、肝心なところがめちゃくちゃ貧相でどうする。

 

 

ここで突然だが、フェルディナン・ド・ソシュールという100年ぐらい前に死んだスイスのおっさんを祖とする構造主義言語学の話をする。知っている人は読み飛ばしてもらっていい。

構造主義言語学では、名前(シニフィアン)が、それぞれの名付けられた対象(シニフィエ)に一つずつ名札のようにぶら下がっている、とは考えない。ぼくらも実生活ではそういう風に考えがちだが、実際はそうではない。

たとえば、木について考えよう。英語には「tree」と「wood」という二つの「木」をあらわす単語がある。前者は生えている木、後者は切り倒した木材という意味の違いがある。

しかし、日本語では二つを区別なく「木」と扱う。「名前名札説」が正しいなら、これはおかしいだろう。woodの名札は日本語ではどこに行ったのだろう?

だから、構造主義言語学で「差異の体系」というように、言語というのは「ものごとの区切り方」の違いといえるというわけ。treeとwoodがある英語、木しかない日本語、そこに言語の本質的な違いがあるのだ。

 

ここでさらにもう一歩進むと、この各言語の「ものごとの区切り方」が、われわれの文化を規定している、ということも言えるのだ。

たとえば、大人になって「ADHD」という言葉に知り、子どものころの自分がただのグズでなかったのだと知った人もいるだろう。ADHDという新たな「区切り」をもらうことで救われたのだ。

あるいは、ゲスな上司に「最近、いつしたの?」と聞かれた際、我々は「セクハラ」という語の区切り方を知っているからこそ、怒りに震えることができる。

行動や感情があって言葉が生まれるのではない。順序はまるっきり逆だ。言語によって行動や感情が規定されていくのだ。

 

さらに思考を暴走させるならば、ぼくがよくする思考実験に、「交際」に関する表現が乏しい言語というものがある。実際にそんな言語があるかはわからないが。

その言語では恋愛も結婚も浮気、不倫の違いも存在しない。性愛全般についてアバウトな言語なのだ。

すると、その言語が支配的な社会では婚姻外の性交渉は果たしてとがめられるのだろうか……??

 

 

閑話休題。そういうわけで、likeとloveという区切りについて、日本語に「好き」しかないことがいかに不自由化というのがわかってもらえただろうか。

もっとわかりやすくいえば、「好き」というのは極端なのである。だからこそ、likeぎみの「好き」が暴走してしまうことだってあるだろう。

0から100の目盛りで考えよう。「好き」と伝えない場合が0ならば、「好き」と伝えただけでメーターがぐーんと100まで一気に行き切ってしまう。そこに「like」に相当する、50ぐらいの言葉があってもいいはずなのだ。

 

だから、日本の男女の付き合い方というのは不器用だと思うのである。

交際中、あるいは結婚後に配偶者と別の異性とはいっさい交流をもってはならない、という強固な思想を持っている人がいる。

しかし一方で、恋人がいたって結婚したって、ほかに仲がいい異性がいてもいいではないか。セックスをしないかぎりは、という人だっているはずだ。

でもそういう時、その友達に対する「like」を表現する言葉をわれわれ日本語話者は持たないのだ。

 

今、この箇所を読んだ瞬間から、ぼくのことをゴミムシであるかのように睨み始める人もでてくるだろうが、ちょっと待ってほしい。別にこの発想は浮気や不倫を勧めているわけではない。むしろ逆だ。

もしも「like」に相当する言葉が日本語にあったら、中には浮気や不倫を思いとどまっていた人もいただろう。繰り返すが、行動に言葉があとからついてくるのではない。言葉によって行動が規定されるのだ。頭の中に「好き」しか持ち合わせていないから、感情までもが100までいって暴走してしまう

 

おまけ

文化による区切りの違いの話で言うと、キスというのは非常に面白い。

各国で微妙に差異はあろうだろうが、一般的に、ほほへのキスがlike唇へのキスがloveに相当するだろう。

この違いによって生まれるドラマはいろいろある。

たとえば映画「ホリデイ」において、偶然にも一夜を共にすることになった初対面のキャメロン・ディアスジュード・ロウ

挨拶もほどほどに、おやすみのキスをほほにしようとしたその時。アクシデントで口同士でキスをしてしまい、一気に燃え上がってしまう、というシーンがある。

 

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ところが、日本ではこんなことは起こりえない。

ほほのキスという概念が一般的ではないからだ。キスしたらほほであろうが唇であろうか、アンストッパブルオーバーランしてしまう。

何度もいうが、極端なのである。