いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】おぎやはぎ矢作をギャン泣きさせた小説『君の膵臓をたべたい』を読んだよ

君の膵臓をたべたい

君の膵臓をたべたい

昨年ごろ流行っていたそうですが、読みました。

他者への共感性が低い、いつもひとりの高校生「僕」は、ある偶然から自分とはかけ離れた性格のクラスメート、天真爛漫な「桜良」が余命いくばくもない病に犯されていることを知る。小説は、そこから2人の交流が始まり、「僕」が「桜良」に「君の膵臓がたべたい」とメールするに至るまでを描く構造になっています。


いちいち持って回った言い方のしゃらくせえ文体に、ときおり「ヴッ」と胃酸が逆流してくるのを感じることもありましたが、可愛い女の子が向こうから勝手に接近してくれる美味しい展開は、ゴミのような青春を送ってきた人間からしたらたまらない養分です。本当にありがとうございました。


ぼくがこの小説に興味を持ったのは、記事タイトルにあるとおり矢作が号泣したと言って褒めていたからです。ぼく自身は泣けなかったですが、同時に、これで「泣ける」という人がいるのもよくわかる。それは、きちんと「ボタン」を押されているからです。
「泣ける」のには、何か特別なオリジナリティなどはいりません。必要なのはある種の「技法」。人が「泣ける」という現象は、われわれの心の中に「ボタン」みたいながあって、そこを押すことに近いと思うのです。「ボタン」は何度でも押せます。人によっては、高橋名人ばりの16連射だって可能です。「ボタン」をきちんと押すことができる作品は、文学性の高低に関わらず「泣ける」のです。

ネタバレになるので詳しく書くのは避けますが、この小説の押す「ボタン」はドラマ『北の国から'98時代』で岩城滉一演じる草太兄ちゃんの「テープ」に押される「ボタン」と同じです。これで分かる人は「なるほど」でしょうし、意味がわからんという人はぜひとも一度観てみてください。「北の国から」を(そっちかい)。

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ひとつ気になったのは、内容レベルではない、こうした「泣ける」小説の流通全体に感じられる根本的な矛盾です。
こうしたヒューマニズムに訴えるフィクションは、生それ自体が目的であるかのように訴えかけます。それ自体は正しいし、何の反論もありませんが、その一方で小説としては死をひとつの「手段」にしている面もある。小説の構成上、あらかじめ「死」が待っているのは決まっているのですから、読者としては「いつ死ぬの?どんな風に死ぬの?」という風に身構えて読まざるをえない。
そこには、内容と形式のどうしようもない乖離が存在します。
もちろんそれはこの小説に限った話ではありません。でもぼくは、そうした矛盾にどうしても目がいってしまうし、その矛盾に真正直に向き合う小説に出会いたい。

矢作はこの小説の存在を、この業界の師と仰ぐ極楽とんぼ加藤浩次から教わったそうです。正直な話をすれば、映画『この世界の片隅に』を絶賛する加藤と、この小説を絶賛する加藤が、ぼくには同一人物に思えませんでした。