いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「君の名は。」は好きな映画じゃないけど大切にしたいことはわかるよというお話


昨年大ヒットした映画「君の名は。」。


個人的に好きな映画ではないのですが、ひとつだけこの映画が大切にしようとしているものには共感したところがありました。


その「大切にしようとしたこと」とは何か。それは公開当初、監督・新海誠が試写会で話していた言葉にヒントがあります。


これは試写会に行った知人から聞いたのですが、新海さんは壇上で「出会う前を描きたかった」(大意)と話していたそうです。
御存知のとおり(いいですか? ここから先はもう内容に踏み込みますよ? ネタバレとか言わないでくださいね!?)、「君の名は。」は少年少女の体が入れ替わるという不可思議な現象を描くファンタジーです。

ふたりは互いに相手の情報を少しずつ手繰り寄せながら接近し、ついには何人もの命を救ったりなんだりカクカクシカジカしたあとに、クライマックスでようやっと「出会う」。映画が描くのはふたりが「出会う前」です。


「出会う前に出会っていた」というアクロバティックな状況は、実は数年前にも世界で報じられ話題となっていました。しかもそれは実話としてです。

・運命的な出会いをしていた2人
ニュージャージー州在住のライアンさん&ジョーダンさん。2人は2004年に、紹介を通じて知り合ったという。

ごくごく普通の出会い、お付き合いをし、結婚し、子供が生まれ……というごくごく普通のカップルだったのだが! 数年前、ある1本のホームビデオにより、2人は運命的な出会いを果たしていたことがわかったのだ。

・27年前のホームビデオに “未来の夫” を発見
それは、妻のジョーダンさんが今から27年前に行った家族旅行のビデオだ。彼女が10歳のときに『セサミストリート』のテーマパーク「セサミプレイス」に行ったビデオを見ていると、なんだかライアンさんっぽい少年が映りこんでいたのである。

2人はビデオを思わず二度見! ジョーダンさんの両親がウォタースライダーから降りてくるジョーダンさんを待ち構えているときに、偶然、少年時代のライアンさんがカメラの前を横切っていたのだった。

【奇跡の瞬間】これを運命と言わず何と呼ぶ! 27年前のホームビデオに “未来の夫” が映っていた!! 2人はその16年後に知り合って結婚 | ロケットニュース24


まさにこれこそ「出会う前に出会っていた」といえる状況です。


この「出会う前に出会っていた」というありえない状況を、『君の名は。』は「ファンタジー」を、上の夫婦は「奇跡的な偶然」をブーストにして実現させているわけです。


ではどうして、「出会う前に出会っていた」系のストーリーはぼくたちを感動させるのでしょう。
例えば、パートナーの家に行って、自分と出会う前のアルバムなどの類を閲覧する機会があったとしましょう。そのときぼくたちが襲われるのは、「別に自分がいなくてもパートナーは存在した」という当たり前ではありますが、少し不思議に思える事実です。


今いるあなたのパートナーは、別にあなたと出会った瞬間から存在し始めたわけではない。「あなたがいたから幸せになれた」というたぐいの話がありはしますが、その人は「別の自分」を知らないわけで、その人なりの人生を歩み、あなたのことなど感知することなく生きてこれたのです。「あなたのいない人生なんて考えられない!」というのろ気がありますが、でも実はその「出会い」の方こそが人生にとってはよっぽどイレギュラーな事態といえます。

逆説的ではありますが、そのように「出会う前」を通して、ぼくらは「出会い」がもろく儚いものであることを思い知るのです。そしてその一方で、そんなもろく儚い「偶然」が自分の人生のおおよそを規定してしまっているその事実に、驚きとともに感動を憶えてしまう。
「出会う前に出会っていた」系のファンタジーが琴線に触れるのは、そのあたかも運命かのように思えるほど豊かな偶然について、考えてしまうからではないでしょうか。

新海さんが描きたかったのは、女体化からのセルフおっぱいモミモミでも、少女の口噛み酒でもなく、実はそこだったのではないか。そう思うと、この映画には共感せざるをえないのです。


さて、そんな『君の名は。』ですが、ぼくは冒頭で「好きではない」と書きました。文字通りそれは好みの問題です。

君の名は。』は「出会う前」を描いてはいますが、その一方で、ここまで書いてきたことを撤回するようですがその「出会い」そのものについては「必然」=運命の方にギリギリのところで振り切ってしまっているのです。
しかしぼくは、「出会い」に「偶然」を見出したいめんどくさいタイプなのですね。ふたりが出会ったのは偶然、だからこそ貴重なのだ、みたいな。その「出会い」観の相違が、ぼくの中で今一つ『君の名は。』に乗れなかった理由なんじゃないかと自己分析しています。