いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

【書評】間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに


ネットメディア「ブッチNEWS」内で「さよなら、くまさん」というキレキレのコラムを連載されているロマンポルシェ。ロマン優光さんの新著です。いまや愛の定義と同じぐらい多義的になってしまった「サブカル」の定義とはいったいなにか、そしてそのめんどくささを語った、いま絶賛一部界隈で盛り上がっている一冊(どうでもいいんですけど、なんでこのタイトルはマウンティングを「」に入れたんでしょうね?内容からすれば、サブカルを「」に入れるべきだと思うんですが)。


「サブカル」っていったいなんなんでしょう。ぼく自身、一言で説明することは到底できません。考えすぎて一周回ってわからなくなってきました。やはり愛と一緒です。著者もそうした地点から出発し、「サブカル」が発話者によって恣意的に決められる相対的なものであることを詳らかにしていきます。自称としての「サブカル」、蔑称としての「サブカル」、「サブカル」と決めつけられて憎まれるもの、憎き他者を「サブカル」と矮小化するもの。筆者がいう「間違ったサブカル」の「間違った」とは、確定的事実(サブカルか、サブカルでないか)の問題ではありません。道義的に間違っている(フェアでない)という意味であり、そうした「サブカル」の使い手に筆誅を下します。「一個人としての私が、一個人としての相手を憎まないといけないのです。高みからではなく、同じ地平で泥の投げ合いをすべきだと思うのです」(P.186)という指摘、至言だと思います。

この本が印象的なのは「サブカル」という言葉をこれだけ何度も使っておきながら、本文では一般的に「サブカル」と目されている作品自体の論評はかなり薄味といえるところです。特に「作品批評」といえるのは、漫画家の岡田あーみんさくらももこの作風の違いについて論じた部分くらいで、その他にはほとんど深入りしません。言及される「サブカル」著名人の多くにもなんらかの作品、著書があるのですが、それらにもあまり触れられない。全体的に作品の良しあしにはほとんど触れないのです。

本のテーマが「サブカル史」でなく「サブカル」という言葉をめぐる問題なので、話がちがうからだといえばそれまでです。けれどぼくは、この本の「作品でなく人」という比重にこそ「サブカル」の今日的な状況が反映されている気がしてなりません。前から思っていたのですが、「サブカル」をめぐる一連のめんどくさいことの多くが、当の映画も音楽も漫画もテレビもそっちのけでそこに集う人々をめぐってのもめごとなのです。それは作品にあまり関係のない、人間的、あまりに人間的な問題なのです。

ここには「サブカル」という、曖昧ながら曲がりなりにもコンテンツ群/その愛好者を指していた言葉が発酵していくうち、次第に人の醜い感情ばかり吸い集める、一種のブラックホールになっていったプロセスがあるとぼくは考えます。だからこそ、筆者は意図しているかばかり不明ですが、本書から作品批評のテイストは薄まり、人間関係の話になっているのではないか。

試しに振り返ってみてください。ここ数年「サブカル」界隈の論争(というかただの揉め事)のほとんどが作品そのものをめぐったものでなく、本書が触れているような作品周りにいる人による横道に逸れた問題のはずです。たとえば映画では、「×ートロッカー論争」「×イレージ・×イライフ論争」など、作品の解釈をめぐる見ごたえある熱い論争はありましたが、そんなものはごくわずかで、ほとんどは誰かの言動や性格の好悪をめぐる「人」の問題でしかない。そこからは、当初みんなが集まるきっかけになった作品は影も形もなくなっている。

もうひとつ、著者が特定の作品に触れられないのは「みなまで言うな。すごいのはわかっている」ということの現れかもしれません。本文では多くの「サブカル」著名人が批判の訴状に上がっていますが、一部(主にN・A氏とO・T氏。本書ではもちろん実名)を除いてはその批判対象の作ったもの、書いたものの批判には及びません。それは、ただ単に触れていないだけかもしれませんが、一方で「あんたの業績はすごいのはわかってるよ。それをわかった上でこういうところに注文をつけたい」という話にも読めてしまいます。批判の言葉には大前提としてリスペクトがあるのです。
 
それだけに、この本をめぐってまた一部でわなわなと火の手が上がっていますが、その反応はあまりにわかりやすすぎます。「この本が叩いているのは、それだよ!そういうふるまいのことだよ!」と叫びたくなるのですが、読んだ人はいかがでしょうか。