いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】裸足の季節(2016年公開)

こんなに瑞々しくもあり、切なくもあり、応援したくなり、そしてまた誰かに見てもらいたいラストシーンもありません。本作「裸足の季節」は、グロテスクな"ある価値観"から必死の逃走を図る少女たちが主人公です。

物語の主人公は、トルコの片田舎で暮らすソナイ、セルマ、エジェ、ヌル、ラーレの5人の姉妹です。自由気ままな青春を謳歌していた彼女たちですが、ある出来事をきっかけに、大人たちによって半ば監禁されることとなります。5人は文字通り、家に入ることとなる。

映画が全編をかけて、ほとんど殺意をもって描こうとするのは、女性を「保護」せんとする家父長制と性道徳です。彼女たちの「純潔」は、大人たちにとってそれ自体が財産なのです。「傷物」となれば、売り物にならなくなってしまう彼女たちの身体は、自分たちのあずかり知らないところで大人たちに値踏みされ、隔離され、男たちの前に陳列されていきます。

処女であることを証明する書類を大切そうに握る祖母、シーツの上で赤いシミを血眼になって探す花婿…一見それらの身振りは「彼女たちを思って」という名目によってなされますが、大人たちが守りたいのは一つの人格をもった彼女たちではなく、あくまでもその「純潔」です。そこには、不気味なかい離があります。

皮肉なことに、少女たちのみだらな欲望を疑い、戒めようとする側の人物こそが、鑑賞者からすれば淫らでわいせつに見えてしまう。映画はその転倒も詳らかにします。淫らでわいせつなのは彼女たち自身はなく、彼女たちをみる自分たちなのだ――大人たちとその真理との間には、絶望的なまでの距離があります。

撮ったのは1978年生まれのデニズ・ガムゼ・エルギュヴェンというトルコ出身、フランス在住の監督です。なんとこれが長編デビュー作だとか。パンフレットのインタビューによると、この映画の動機にはやはり、実際に母国トルコにもこうした道徳観は根強く残っている模様です。冒頭の「首に股をこすりつる」エピソードなどは、監督自身の実体験なのだそうです。恐ろしい。。。

なによりも印象的なのは、末っ子ラーレを始めとする姉妹5人の思春期特有の危うさをもった魅力です。驚くべきは、3女エジェを演じたエリット・イシジャン以外は、みな演技初心者だということです。さらにパンフレットによりますと、次女セルマを演じたトゥーバ・スングルオウル(彼女が物語中盤でみせる文字通りの「死んだ目」は今年のアカデミー賞級!)に関しては、監督が同乗した飛行機で偶然見つけた存在だったそうです。初々しい彼女らをまとめあげたところにも、監督の手腕が光ります。

原題の「MUSTANG」とは野生の馬を意味します。アンコントロールな姉妹の存在感と、馬のたてがみに似た彼女たちの長い髪がインスピレーションにあるそうです。一方邦題「裸足の季節」については、本邦では某超有名な女性アイドルの有名曲と全く同じです。映画の方向性からして、ビミョーといえばビミョーですが、ただ、裸足の5姉妹の印象的なシーンと、クライマックスに向けて少女がスニーカーを履くところからも、ある程度的を得ているとも思えます。

誤解を恐れずにいえば、ぼくは鑑賞しながら「マッド・マックス 怒りのデスロード」を思い出しました。イモータンジョーに「財産」として扱われる女性たちが、マックスやフュリオサの手を借りて命がけの逃走を図る姿に、5姉妹をどうしても重ねあわせてしまうのです。「マッド・マックス」よりも軽快で、「マッド・マックス」よりもはかない。これは少女たちの「マッド・マックス」なのです。