いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

「ネット書き込みは公衆便所の落書き」と軽視するのは有効か


きょう、「サンデー・ジャポン」(TBS系)を眺めていたら「便所の落書き」という言葉を耳にしました。熊本地震の復興に尽力するタレントに対して「不謹慎狩り」ともいえる誹謗中傷が横行しているとの話題で、医学博士の奥仲哲弥さんが「本来はね、誰にも相手にされない昔の公衆便所の落書きなんですよ。それをね、ネットというツールになって活字になっちゃうと、あたかもまともな人の発言になっちゃう」と指摘していたのです。

Twitterで検索していると、「言い得て妙だ」などと感銘を受けているユーザーもいるようですが、2ちゃんねるなどでの匿名のしょーもない書き込みを「便所の落書き」みたいなものだと軽視するのは、別にいまに始まったことではない。10年以上前からある言い回しなんですね。

ネット上の書き込みを「便所の落書き」と揶揄することには、それがくだらなくて、存在価値がなく、そして書いた人物の品性を貶める意味があると思われます。

けれど、ネット上での書き込みを「便所の落書き」と同等に見るのには、実は2つの誤りがある。ひとつは「日本死ね」ブログのように一定の影響力をもつ書き込みもあり得るということ。未だかつてそんな「便所の落書き」がありえたでしょうか。
そしてもうひとつは、今ではネット上の「匿名」なんて有名無実であって、完全な匿名などあり得ないことです。さらには、実名であろうと「便所の落書き」をする人が出てきた、という驚きの事態もあります。みなさんは、うん×の落書き(か、それに準ずるクソのような日本語の羅列)にわざわざ実名の署名を入れる人が出てくることを、予想できたでしょうか?

こうしたふたつの点からも、ネット上の書き込みを「便所の落書き」と矮小化するのは、ちょっと無理が出てきている。


むしろぼくは、ネット上のあらゆるアウトプットは、テレビやラジオと並列したメディアととらえることのほうがよっぽど理にかなっていると思えます。Twitterアカウントも、それひとつひとつが個人メディアであって、Twitterサービス全体はそのメディアの群生地帯といえる。

個人メディアは全世界に晒されるあなたの分身です。メディアというのは何も、打ち合わせがあって、セットが建てられて、リハーサルがあって、フロアディレクターのキュー出しによって話し始めるものだけではありません。
テレビもTwitterアカウントもYouTubeも、規模の大小はあれどおなじメディアです。優れたテレビ番組があればゴミのようなTwitterアカウントもある。ゴミのようなテレビ番組があれば優れたTwitterアカウントメディアもある。けれど、テレビと特定のTwitterアカウントを変に線引しないほうがいいと思えるのです。

こういう風に思うのは、ぼくはあまりにもネットユーザーが「メディア」であることに無自覚に思えるからです。今回の震災でも、メディア批判がわんさか出ています。その批判の一つ一つに一定の理があるのでしょうが、一方で、そうしたメディア批判を書き込む側が、自身がまるでメディアと無関係であるかのように思っているという気がしてならないのです。

けれど、メディア批判をするその書き込みもまたメディアなのです。ネット上において、誰かがメディアで、誰かがメディアでないわけではない。

便所の落書きだといくらバカにしても、ネット上の「便所の落書き」が減るわけではない。そのことはこの10年が証明してしまいました。そんなことをするよりは、マスメディアと同じ土俵にいることを認めた上で、襟元を正す。そんな風潮が生まれるほうが、ずっと生産的な気がするのですが、いかがでしょうか?