ちょっと前に「Domani」最新号の表紙のコピーが物議をかもしていました。
どういうモチベーションなのか全く理解できない pic.twitter.com/NJFU7IgnZZ
— 望月優大 HirokiMochizuki (@hirokim21) 2016年4月2日
電車の中吊りで衝撃を受けたコピー。『幸せになりたい!』なら理解できる。でも『「幸せそう」って思われたい!』というのは全く理解できない。実態よりも他人の評価が重要なのか!?それとも、そもそも幸せになりたいと言うのが贅沢な時代なのか…… pic.twitter.com/mcdTRy4iv5
— 高木夏美 (@natsu_mix) 2016年4月4日
美容院で用意された雑誌の記事タイトルが衝撃的だったので、ぱちり。
— さとひ(春ver.) (@satohi11) 2016年4月5日
【だって「幸せそう」って思われたい!】
幸せそうだと思われるためのおしゃれ、か…なんかすごいなぁ…
(読んでないので中身わかんないんですけどね) pic.twitter.com/sHnN7fQAFc
だって、「幸せそう」って思われたい!――その願望があまりにも他律的だとして、Twitterでバカにされていました。
けれど、本当にそれってバカにされるような願望なのでしょうか。
たしかに、「幸せそう」と思われるには、第三者が必要です。自分の幸せを第三者に決めてもらうのかという話ですが、事実、「幸せそう」って思われることで初めて叶う幸せってあると思うのですよ。
実は、第三者を介して初めてかなう自己実現ってそんなに珍しくない。いくらモテていなくても「◯◯くん、モテてそ〜」と飲み会で言われて嬉しいでしょう。人にどう見られるかが、内実と関係ないところで満足感を与えることってあると思います。
そして、なんといっても、Facebookで日ごろあれだけ自慢話ばかり垂れ流している人が、あのコピーに文句言うのはさすがにムリがあるでしょう。なんでわざわざ、好き好んでみんな自分の個人情報を垂れ流すのか。そこに、「幸せそう」って思われたいという下心がはたして一ミリもないのか。ぼくはそれはムリがあるというのです。
ソーシャルメディア全盛の時代、誰かにこう思われたい、こう見られたいというのは、普通の感覚です。いーや、俺は違う。俺は自然体で生きているという人だって、「自然体で生きてそう」と思われたいに決まっています。だって、自然体ならそもそもソーシャルなんてめんどくさいものに手を出すはずないでしょう。
「Domani」のコピーになにか言いたくなった人はきっと、そこに鏡を見せつけられたかのような後ろめたさがあったのではないでしょうか。