いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「反省文」とはなんだったのか

この投稿がツイッターに流れてきて面白いと思ったんですけど、それ以上にああ、反省文ってあったなー、よく書かされたな―という記憶がぶり返してきました。
悪さをした子どもを400字詰め原稿用紙に向かわせて反省文を書かせる文化。どの学校にも多少はあるかと思いますが、ぼくの場合は特に小学3〜4年生のころの担任のK先生が「反省文マニア」というぐらい、いっぱい書かされた記憶があります。

いまでこそ、こうして自ら進んで文章を綴っていますが、当時はこれが本当に苦痛で仕方なかった。というのも、そこまで書くことがないからです。子どもの悪さなど、たいていは突発的なもので、深く反省しようがないものなのです。それを反省しようとするならば、すいませんでした。申しません。これで終わりなわけなのです。例えば、これが4枚となると、1200文字も水増ししなければならないのです。

そして、この枚数についても、必然性はありません。最初「3枚書け」と言われたものを、口答えしたばっかりに4枚に増えたりします。そのように長大に書かされた反省文について、内容などほとんど覚えていません。

あの「反省文文化」というもの、なんだったのでしょうか。「更生」という意味では、本当に意味がないと思います。あんなことをするぐらいなら、例えば校庭の花壇の手入れをさせるとか、死んだ金魚が浮くくっさい水槽を掃除させるとか、そういう前向きな「奉仕活動」にすればいいわけです。

もしくは、上記の投稿ではないですが、延々と漢字を練習させるのもいい。とにかく、生産的な活動をとおして「反省」を遂行させるべきです。


ただ一点、もし「懲罰」としたら、これは一理あるのかもしれない。それは、シシュポスの岩と同じです。これ以上出てこない言葉を出させ、なおかつ何の意味もない、本人も家に帰って夕飯を食べていたら忘れるような文を書かせる、その無意味だそのものが「懲罰」だとしたら、あれは反省という前向きな衣をかぶった狡猾な"体罰"だったのかもしれない、と不思議な感心を覚えるのでした。