いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「東京タラレバ娘」が描く"自由恋愛"の怖さ


東村アキコのマンガ『東京タラレバ娘』は、彼女の作品特有のテンポのよさ、比喩表現、ギャグセンスは相変わらずの中、とくに辛辣な内容が目を引く一作だ。東村さんの絵のタッチはどちらかというとポップだが、この作品の中身はヘタな劇画よりも重いかもしれない。

主人公は脚本家の倫子、33歳。Webドラマの脚本家として細々ながら成功を収めている彼女には、高校のころからの親友の香と小雪がおり、このふたりも独身。

東京で自由を謳歌するアラサー独身女子

このマンガはタイトルに「東京」とついている。作者は1巻の巻末で、2020年東京五輪が絡んでいると明かしている。五輪が決まった際、作者の周囲の独身女性たちが「7年後……もしかしてわたしはまた独りで(もしくは実家で両親と)五輪を観戦することになるのだろうか…」と焦り始めたのだとか。

そしてもうひとつ、主人公ら3人が東京をホームタウンにしていることも意味する。彼女たちの住む東京は、このマンガにおいて自由のアイコンでもある。いつもの3人で酒を酌み交わしていた倫子は、ほろ酔い気分でこう独りごつ。
「東京じゃ 若い女が 赤ちょうちんで飲んでても 誰も何とも思わない」「私はこの東京(まち)が好き」「女友達と飲んでる この時間が好き」

結婚適齢期を「クリスマスケーキ」だなんて例えたのも今は昔。大都会東京では、女性がシングルライフを謳歌することをとやかく言うことの方が野暮というものだ。

「独りの自由」から「独りの寂しさ」へ

ところが、自由な独身ライフを満喫していた彼女たちは、倫子のある痛い「勘違い」をきっかけに取り返しの付かないことに気付かされる。かつて自分を好いていた男は自分より10歳若い女を手に入れ、かつて付き合っていた売れないバンドマンは自分の手の届かぬスターとなり、いいと思った同年代の男性にはすでに妻がいた……。彼女たちの「独りの自由」はいつしか「独りの寂しさ」にすり替わっていたのだ。

酩酊した倫子の目の前で、彼女たちの注文したタラの白子とレバテキがウネウネと動きだし、語りかける。「あのときああしてい"タラ"」「あのときこうしてい"レバ"」。彼らは繰り返し現れては、倫子の古傷をえぐるのだ。自分が選べたはずのもの、自分の判断で手を放したもののだからこそ、倫子たちの中で募る後悔はより深い。

果たして、女たちは独り身の寂しさを埋めるために、本当の幸せとは言いがたい刹那的な快楽に溺れていくのである……。

「自由」恋愛という諸刃の剣

しかし、彼女らが一体何をしたっていうのだろう? 彼女たちにこのような目に遭う落ち度があったのだろうか? そうではない。彼女らは自立した大人の女として頑張って生きてきただけだ。

言い寄ってきた男を振り払ったり、浮気に走ってしまったりしたこともあるだろう。しかしなぜこんな目に合うのか。

その理由はただひとつ。「選ぶ男の側にだって自由がある」からだ。

彼女も、そして彼も悪くない。誰も悪くないけど寂しさだけがそこには去来する。現代日本の交際の多勢を占める「自由恋愛」というものの怖さがここにある。ぼくらには「選ぶ自由」も「選ばれる自由」もあるが、それは同じく「選ぶ自由」も「選ばれる自由」ももつ相手があってこそなのだ。


誰かに見初められることが全てではない。独りで生きる幸せもある。それはごもっとも。1度離婚を経験している作者自身も、単行本1巻の巻末で「『結婚したほうが 絶対 絶対 幸せだよ☆』なんて みじんも思っとらんです」とそのことは強調する。

でも、世の中には「幸せになれないって ことは 私達にとって 死ぬのと同じ」(作中より)だといい、その幸せとは(異性)愛でしか手に入らないと思っている人も一定層いる。このマンガはそうした女性たちを描くのである。

タラレバ娘たちが拝聴すべきマックスの教え

では作者自身は、「愛」でしか幸せを感じることのできない女性はいったいどうすればいいと考えているのだろう。実はそれは、巻末のエッセイなどにおいて、繰り返し明示されます。一言で言えば「女子会でタラレバタラレバしている暇があったら、さっさと男を探しに行け」というものだ(ちなみに単行本3巻の応募者全員プレゼントは「女子会撲滅手ぬぐい」である)。

同性同士で群れて「タラレバタラレバ」と傷を舐めあっていてもしかたがない。白馬の王子さまが迎えに来てくれる見込みもない(ちなみに作中で倫子は、のっぴきならない関係の男性から、彼女が手がける作中作ドラマで「白馬の王子様」展開を使うことを禁じられる)。そうなったら、自分で男を探しにいくしかないではないか、というのだ。


その結論は、今年公開されて熱狂的な支持を呼んだ映画『マッド・マックス 怒りのデスロード』にどこか通じかもしれない。


この映画の舞台は核戦争後の荒廃した世界だ。数少ない資源、富は「砦」に住まう暴君に牛耳られている。
その部下である大隊長フュリオサは、暴君を裏切って故郷の「緑の地」への逃亡を画策する。
ところが、彼女らは遠路はるばる訪ねてみたものの、そんな地はすでに失われていたのだ。悲嘆に暮れた彼女は、塩の湖を進んでとりあえず食いつなごうとするが、主人公のマックスは来た道を引き返し、暴君から「砦」を奪ってしまえばいいと提案する。

あてどもなく「緑の地」を探すくらいなら、現にいまあるものを自らの手で「緑の地」に作り変えてしまえばいい、というわけだ。


「タラレバ娘」たちにとって、すでに完成された「緑の地」を目指してあてどもなく彷徨い続けるのは、あーでもないこーでもないと理想の男性を夢想する女子会である。一方、暴君から「砦」を奪って自ら安住の地を築くことこそが、自ら動け、男を捕まえろという作者個人の考えに通じるのではないだろうか?

もっとも、作品の方は未完であり、これからどうなるかはわからない。しかし、その行く末に何があろうとも、読んでおいて損はないマンガであることに間違いないだろう。