いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

どうして「自分のものには絶対ならないけど、いつか絶対に失うもの」に夢中になるのでしょう

あらかじめ書くが、これから綴ることは「野暮」の極地である。本心では、文末に「野暮だね!」ボタンを設置して、読んでもらった人にバンバンおしてもらいたいほどである。そのことを理解した上で読み進めてほしい。


有名人が結婚するたび、Twitterなのでは悲鳴が上がる。中には会社や学校を休む人もいるらしい。それほど、結婚した相手に入れ込んでいたということだ。

中には一つの祭りとして傷心混じりにも楽しんでいる人もいるだろうが、探していると、本気の本気でガチ凹みしている人もいないことはないわけだ。


そこできょうのタイトルである。どうして「自分のものには絶対ならないけど、いつか絶対に失うもの」に夢中になるのだろうか。

美しい、あるいはカッコイイ対象を愛でる気持ちはよく分かる。けれど、彼ら彼女らのほとんどは結婚という形で伴侶を得るのである。どうしてそんな人に、傷つくまでに入れこむことができるのかが、不思議でならない。

ね、野暮な問でしょ?

野暮と思われようと気にせず続ける。ここで、この「自分のものには絶対ならないけど、いつか絶対に失うもの」になぜ夢中になるパターンを考えてみる。


(A)傷つくことはわかっていたけど、ファンになってしまった。

(B)傷つくとは思っていたけど、ここまで傷つくとは思わなかった。

(C)てっきり自分が吹石一恵になるものとばかり思っていた。


A、B、Cどのパターンのファンもいるだろう。Cは一番突飛なようにみえるけれど、意外と多いのではないだろうか。ぼくの大学の後輩にも、ある有名バンドのボーカルと結婚するために上京してきたと真顔で語る人がいた。そういう人も一定数いるわけだ。

そんなCの彼ら彼女らが傷つくのは、一番腑に落ちる。それは一種の失恋である。

Bの人もわかる。別に結婚しようが構わないという気でいたものの、実際に結婚されてみるとずーんとくる。こういう人もいるだろう。

実は、このABCの中でもっとも不可解なのは、Aの人なのだ。「自分のものには絶対ならないけど、いつか絶対に失うもの」を好きになって傷ついてマゾなの?


けれど、Aの彼ら彼女らについて考えていたら、これはF-1レーサーや登山家と同じなのかもしれない、という気がしてきた。
世の中には、どう考えても危ない、死ぬよ? ということにだってどうしても挑みたくなる人がいる。自分の中にある「もっと」の衝動に従い、破滅してしまうかもしれない行いに、誰の指図も受けずに自ら身を投じる人がいるのだ。

もっと高く、もっと速くを突き詰めると、取り返しのつかないことになるのは明白だ。同様に、ファンがつぎ込んだ自分のお金、時間は、対象が人のものになったときに負う傷の深さと相関する。「もっと」を追究することは、自分の身をさらに危険のところに置くことになるのだ。


けれど、そんなことにもためらわずに彼ら彼女らは「もっと」をとめず、「死」と隣り合わせの経験を自らすすんで身を投じるのである。それは、ある意味、きわめて「人間的」な行為だとも言えるかもしれない。
そう考えたらF-1レーサー、登山家に並び、アイドルや俳優のガチオタも不思議と、格好良く思えしまうのである。