いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

『バベル』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督によるマイケル・キートン主演のドラマ映画だ。
個人的には予告編が公開されてから、待ちに待っていた作品である。結論から言うと期待に違わぬ快作だったのだが、不思議な余韻が残る作品でもあった。
というのも、劇中には声を出して笑ってしまうようなコメディ要素がいくつもあったにもかかわらず、観終わって劇場を出るときにはどこか物悲しい気持ちに襲われてしまったのだ。
不思議な体験といえば、本作の大きな特徴として、全編が(擬似)ワンカットという特異な手法がとられていることがあげられる。最初の数分間、ずいぶん長回しだなあと引きこまれたが、実はそれが最後まで続く。
この特殊な撮り方にはどういった狙いがあるのだろう。本作では現実と作品(舞台上で演じられる現実)、妄想などの複数のレイヤーの映像が混在している。それらは、ワンカットという手法によって地続きになるのである。これも不思議な映像体験だった。


キートンが演じるのはかつてヒーロー映画「バードマン」で人気を博した元人気俳優リーガン・トムソン。いまや「過去の人」になってしまったリーガンは、一念発起しブロードウェイの舞台の演出、主演に挑戦している。
キートンは実際に、いまに続くアメコミ大作映画の嚆矢となる89年公開の「バットマン」で主人公を演じていたわけで、否が応でも現実のキートンを連想させられてしまうキャスティングだ。また、彼以外にも本作には実在の俳優名がバンバン登場させて、現在のハリウッドの状況をチクリとやる場面もある。

リーガンの手がける舞台では共演俳優の負傷などトラブルは続発し、彼は次第にストレスをためこんでいく。そんなとき、彼のかつての栄光の象徴であるもう一人の自分=バードマンが耳元で囁きかけてくる――お前の場所はここではないと。
舞台の上演に向けて悪戦苦闘するリーガンは、バードマンの声によって、なぜ自分がこんな無謀なことに挑戦しているのかという自身の欲求と向き合わざるを得なくなる。それは、かつての栄光を取り戻したい、忘れられたくない、愛されたいという欲求だったのである。


リーガンはなんとか本公演前のプレビュー公演にまでこぎつけたものの、上演中にありえない(俳優生命的に)致命的なトラブルを起こしてしまう。ところがこれが怪我の功名とばかりに、彼はインターネット上でとりあげられ、舞台は一躍注目の的となる。
ここには、もはやネットでつながった現代において、エンターテイメントや芸術といったジャンルの垣根を超えてあらゆる人、もの、ことが並列化され「面白いかどうか」という評価基準で判断されていくことの節操の無さがある。
そしてリーガンは、彼の手がける舞台は、映画は、衝撃のラストへとなだれ込んでいくのであるが……。


ネタバレを避けつつ語るならば、クライマックスについてぼくは、9.11が発生したあとにドイツの現代音楽家、故シュトックハウゼンが「あれはアートの最大の作品」などと評し、非難を浴びた騒動を思い出した(シュトックハウゼン自身は別にテロを肯定したわけではないらしいが)。
リーガンが舞台上でとった選択はある種の「事件」といえる。ここでいう「事件」とは、再現不可能な行為を意味し、それは再現性のあるアートでは到底超えられない領域なのだ。先に、この映画では現実、作品、妄想を地続きになっていると記した。舞台芸術はまさに、今ここにいる人が演じているという意味で、現実と作品が交錯している。そして舞台上で「事件」を起こすことによって、現実は容易に作品を超えていってしまう。


先述したように、ぼくは映画の終わりにもの悲しさを感じたのだが、それには2つの要因があると思う。
ひとつは、このクライマックスが、人間がどれだけ綿密に構築したアートであろうと、二度と再現できない「事件」には到底勝てないということを示していたような気がしたからだ。
そしてもうひとつは、リーガンの払った代償の大きさにある。彼はあまりにも大きな代償を払うことで愛されたい欲望を叶えたのであるが、その代償の大きさは、彼が愛されなければ、認知されなければ死んでいるのと同じだと思っていることを意味している。ぼくにとっては、現代で支配的な価値観も、そこからそう遠くないと感じられたのだ。