いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

デート中のスマホ閲覧についてジェネレーションギャップ!?

今日キラキラウェブ女史界隈の女王はあちゅう女史が、こんな記事を公開していた。

http://www.gentosha.jp/articles/-/3332

確かにふたりでいるのに
相手が携帯を触っていて、
手持無沙汰の時は、
ひとりで携帯を触っている時より
切なく感じます。

同じ空間にいるはずなのに、
相手の心はここになくて、
取り残された気分。はっきり言ってみじめです。


要は、デート中にスマホを見るのはマナー違反だよという案件。
はあちゅう女史は、自分自身もデート中にメールが気になってしまうと断った上で、相手がいる前でネットを閲覧することが「当たり前になるのは、ダメだと思うんですよね」と訴えている。

はあちゅう女史の言っていることは、一つ年上のぼくにだってよくわかる。自分と同席しているのにスマホを見られたら、もしかしたら不快になるかもしれない。
けれども、それは実は世代的な問題であって、すでに後続世代にとっては「当たり前」になっているのかもしれない。ぼくらが、もはや旧世代なのかもしれないのだ。


というのも最近、オタキングこと岡田斗司夫内田樹の対談本を読んだ。

評価と贈与の経済学 (徳間ポケット)

評価と贈与の経済学 (徳間ポケット)

この中でオタキングは、すでに若者の中には現実社会(第一世界)とネット社会(第二世界)を等価に、並列にあつかっている者が現れているということを指摘している。
オタキングによると彼の教え子は、自分のみならず友達、恋人と話しながらケータイを触ることが無礼どころか、一種の「礼儀作法」になっていることを指摘している。

岡田 つまり自分は自分のマネジャーであって、目の前の第一世界の自分と第二世界の自分をつねにマネジメントしてるわけです。先生と話している私、ネットで友達とつながってる私など、私がいくつかあって、それに対してマネジメントというかつねに気配りを怠らないっていうのが礼儀であると考えているわけです。
 ぼくらの古典的な考えは、第一世界のほんとうに大事なときはケータイいじらないって思いますけど、ほんとうに大事なときでも彼ら彼女らはいじるんですよ。それは「自分のなかで複数世界がレイヤー構造になっているという真実」を目の前で見せるという行為を通じて、「各レイヤーのマネジメントをするリアルな姿まで見せてるのは、あなたが大切な人だからだよ」というメタ・メッセージを送っていることになると考えているからだと思います。

pp.125−126


つまり、相手の前でケータイをいじるということは、必ずしも目の前の相手を軽んじるという無礼を意味するわけでなく、むしろ「複数のレイヤーの現実をマネジメントする『自分の素』を見せることができるほど、相手に心を許している」ということの現れなのだというのだ。


少し屁理屈のようにも感じるし、第一発言しているのは関係ない女性を巻き込んで愛人リストなる妄想をネットに垂れ流していたオタキングである。説得力など皆無に等しい。だから補足すると、ぼく自身も、より親しい間柄の人といればいるほど、躊躇なくネットにアクセスしてTwitterやLINEを閲覧する若者が実在することを知っている。これはあながちオタキングの「妄想」とも言えないところなのだ。


もちろん、はあちゅう女史のようにそうしたことを無礼だと感じる人がいてもおかしくない。
極言すると、これは個々人の感じ方の問題である。
いくら相手が無礼だと思っていない、むしろ「礼儀作法」だと思ってやっていることだとしても、受け手が無礼だと感じるならば、やっぱりそれは「無礼」なのである。
ただし、不快に思うにしろ、「それが『礼儀作法』だと思ってやっている可能性がある」ということは、頭に置いておいてもいいだろう。判断するのはそのあとでも遅くない。
また、「礼儀作法」だとして相手の目の前でネットを閲覧する人も、それが「不快」に思われるおそれがあることを自覚しておいた方がいいのだろう。