いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

毎日新聞の性犯罪記事から考える「事実と主張」


いつの間にか、こういう話になっていた。

宮崎市のマッサージ店経営者が、女性客を強姦したなどとして逮捕・起訴された事件で、経営者の弁護人の弁護活動が不適切だったとして、性犯罪被害者の支援団体代表が3月3日、宮崎県弁護士会に「懲戒請求」をおこなう。一方で、懲戒請求のもとになった新聞報道について、「誤解を招きかねないものだった」という指摘が地元の弁護士たちから出ており、この弁護人の行動に理解を示す声もある。
(中略)

そのもとになった毎日新聞の記事とは、次のようなものだ。

《被害女性が「被告側弁護士から『暴行の様子を撮影したビデオがある。告訴を取り下げれば処分する』と脅された」と証言した。被告側の男性弁護士は取材に対し「選択肢として提示した。脅されたと思われるなら仕方ない」と交渉の事実関係を認めた》


宮崎強姦事件「ビデオ」めぐる交渉で弁護人に懲戒請求――「誤解」指摘する声も - 弁護士ドットコム


毎日の記事を読んだときは、えー、こんなことを言う弁護士自体が罪には問われないのかなーと思ってしまったけれども、よくよく考えたら"無罪を主張している被告の弁護人が「暴行の様子を撮影したビデオがある」"なんて言うことは考えにくいわけで。

一方で、被害を訴える女性が「暴行の様子」と表現することもなんらおかしい話ではなく、結局これは毎日が記事の書き方をマズったという話である。係争中の論点については、あくまでもフラットな書き方をしないと。

ビデオが存在すること自体がおかしいという主張はもっともで、その点で被告側の主張はちょっと苦しいところがあるんじゃないかとは思うけれど、万に一つ、防犯カメラだったという可能性もあるし……。

それに何より、「証拠があること自体がおかしい!」という主張そのものが、実は怖い物言いだとも思うのである。「証拠があること自体が不自然かどうか」も含めて、証拠を吟味する必要があるのではないか。
引用記事の文末では、弁護人がはたしてビデオの内容をどう解釈していたか、という論点も指摘されていて、なるほどそれも重要なところだと思ったが、話が込み入ってくるのでここでは触れない。


どちらにせよ、毎日の仕事が雑だったのと、文章を書く際に事実と主張の分別することの大切さがよくわかる一件だ。記事の中に事実と主張が混在するのはいいが、両者を明確にわかるように書かないと。



この事実と主張について、ジャーナリストの中には後者を全面的に押し出し、「べき論」でゴリ押しする人もいる。そのあり方が正しいとは思えないが、それがその人の商売なのだろうし、予めそういうことを言う人なのだとわかっていたなら読み流せるから、まだいい。

やっかいなのは「事実を装った主張」だ。意図的に装う他にも、書き手本人が公平中立であろうとしたのに、結果的にその記述がなんらかの党派性を帯びてしまうことはありえる。「差別でなく区別」だと記述したとしても、結果的に差別になっていることがあるように。
今回もそういうケースになるのではないか、と書くと、「事実」というより毎日を擁護する「主張」になってしまうのかもしれないが。