いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

曽野綾子は"かわいそう"

突然ですが、今ラスベガスにいます。


それはいいとして、産経新聞に執筆した「居住区」コラムが元で大炎上しているのが作家の曽野綾子氏である。
安倍さんがまた変わったことをしたのもあり、もはや一周遅れの感があるが、一昨日発表された反論での「チャイナタウン」発言、及び昨日のラジオ番組で放送されたインタビューでの「差別でなく区別」発言によって、該当のコラムがどのような思想的背景を持つものなのか、そしてその論理構造について、奥行き(のなさ)をもって解釈できたという人が多いのではないか。

当たり前ながら、同じ国籍、民族的な集団が母国から離れた場所に"自主的に"寄り添いあうことで結果的に"街"になることと、あらかじめ決められた居住区内において管理されることとの間には千里の径庭がある。
また、「ちがうちがう! 嫌がらせなんかじゃなく、おれはただ純粋にあの子の男性経験の人数が聞きたかっただけなんだ!」と弁明したって、嫌がられればセクハラはセクハラである。それと同様に、発言者が「差別でなく区別」なのだといくら釈明しても、結果的にそれが差別の形態をとるのならば差別と受け取られてしまう。


ところで、ネットではちょいちょい、今回のように紙媒体での発言が炎上することがある。厄介なのは、炎上している本人がネットの利用者でない場合である。そのとき、火の手は本人不在のままどんどん燃え広がり、欠席裁判の様相を呈していく。
曽野氏もそうした著名人の一人で、ネット上にアカウントをもっていないのにこれまでにも何度も炎上する希有な才能の持ち主だった。
そしてついにやったかというのが今回である。あろうことかマンデラ大統領の釈放された記念日にデリケートな人種問題にぶっ込み、言葉の壁を軽々と越えて火の手が燃え広がってしまい、ついには曽野氏本人が公式に反論するところまで発展している。



さて、これまでぼくが曽野氏について興味が抱いていたのは、彼女とネット社会との距離感だった。幾たびの自身のネット炎上についてどう捉えているのか。あるいは、情報取得、発信に際してネットをどのように使っているのか、などだ。
それについて、つぎの一言がすべてを語っているだろう。

「ブログやツイッターなどと関係のない世界で生きて来て」


ぼくは、これを単なる趣味の問題とは片付けられないと思う。曽野氏は勝手に「関係のない世界」 にしてしまっているけれど、この感覚自体が、非常にかわいそうではあるが言論を生業にしている人として「オワコン」だと言わざるをえない。

ブログもツイッターもツールにすぎないが、産経新聞だって人に情報を伝えるためのツールに過ぎない。問題は媒体の方ではなく内容なのだ。
そんなことを言ったら、産経新聞を購読する紳士淑女の中にだって、当のコラムに唖然とし、批判的な人だっているかもしれない。
要は、玉が飛んでこないためにみな賛同していると思い込んでいたにすぎない。


この騒動にあたって、ぼくは曽野氏の最近の著作を買い、ラスベガスへの道中にペラペラ眺めてみた。

帯の文言など、今回の騒動を鑑みると中々味わい深いものがある。


ほとんどは老人の繰り言で感心できない内容だったが(これがブックランキングの上位にくるTSUTAYAのレベルよ)、その中に興味深い記述があったので紹介したい。

漫画やインターネットの情報だけでは、知的人間にはなれません。インターネットで引き出した答えより、本を読んで自分で考えて導き出すほうが、独創的な答えが生まれます。だから、他人と意見が違うことを恐れなくなる。それが自由な行動に結びつくのです。

p.26『老人の才覚』


「インターネットで引き出した」で始まる文章と接続詞の「だから」で始まる文章は論理的につながらないような気がするがそれはともかく、まさに今回の状況の痛烈すぎる皮肉になっていはしないだろうか。
曽野さんの間違いは、ネットの先に出来合いの「答え」だけがあると思い込んでいることだ。それだけでなく、ネットには自分の主張に異を唱える他者も存在する。


しかし、じゃあ御年84歳の女性に、そうした「新しい世界」を受け入れることが可能なのか、ということである。
そんなの無理。無理である。
だからこそ、タイトルにある通り、「かわいそう」なのだ。
彼女がもう10年早く生まれていたら、こうした事態に遭わずに逃げきれていただろう。


ただ、曽野氏は著書でこうも綴っている。

少なくとも、社会の仕組みにおいては、いささかの悪さもできる部分が残されていて、人間は自由な意思の選択で悪を選んで後悔したり、最初から賢く選ばなかったりする自由があった方がいいと思う。

p.19『人間にとって成熟とは何か』


この部分には大賛成である。
であるからして曽野氏には、今回の件で後悔するのか意地を貫き通すのかはわからないが、人間が何歳になっても「成熟」できることを、自ら証明してもらいたいのである。