いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】大統領の執事の涙

ジョン・F・ケネディロナルド・レーガンなど、歴代7人のアメリカ大統領に仕え、愛された黒人の執事セシル・ゲインズを、フォレスト・ウィテカーが演じる伝記映画。2010年に亡くなったユージン・アレンという執事の実話を元にしており、名前が違うのでまんまではないが、ある程度着想を得ているようだ。


執事が主人公だというと一見上品な作風かと思えるが、その本質は「差別と戦う」とは一体どういうことかを考えさせられるものだ。
時代は公民権運動でアメリカが揺れる50〜70年代。人種問題が過熱したその時代に、彼は世界の政治の中枢、ホワイトハウスに執事として入ることになる。
『それでも夜は明ける』で描かれたような綿花畑という激烈な差別空間で育ったセシルがそんな地位につけたのには、執事の基礎を叩き込まれた師匠(のような存在)から受けた、「二つの顔を持て」という教えがある。本当の顔ともう一つ、白人に見せる従順な顔があったからこそ、彼は世界の中枢にリクルートされたのだ。

しかしその「二つの顔」の分裂は、彼の築く家庭そのものの分裂へとなっていく。彼の長男で、過酷な運動に身を投じていくルイスからすれば、そんな父親の姿は納得できない。有り体に言えばそれは「名誉白人」であり、白人へ媚びへつらうことと引き換えに安寧と力を得ている、とも言えるからだ。その最凶最悪に醜悪な具現化が、例えばタランティーノ『ジャンゴ 繋がれざる者』で、黒人奴隷に容赦なく振る舞うサミュエルL・ジャクソンの執事なのだろう。


けれど、本当にそうなのか? それは一面的な見方ではないか? と疑問を投げ掛けるのはキング牧師で、彼は黒人執事(「ハウス・ニガー」という侮蔑語!)たちが、勤勉に働くことで黒人に対するステレオタイプを変え、人種間の壁を崩した「自覚なき戦士」なのだ、と指摘する。火炎瓶を投げ、殴られながら「白人専用シート」に座り続けることだけが「戦い」ではない、ということだ。

だが映画は、ルイスのような「自覚ある戦士」が間違っている、と言い切るわけでもない。
セシルはセシルで、レーガン政権においてついにパーティの「招待客」に呼ばれ、妻を初めてホワイトハウスに招待することになる。おそらく当時の黒人にとって「上がり」といえる状況に到達したのと同時に、彼は執事という仕事に虚脱感を抱くようになる。それは、パーティに招待されたことで「名誉白人」として上り詰めてしまったからだ。執事を辞職した彼は、勘当していた「自覚ある戦士」ルイスの活動の意義を深く思い知るのである。

そんな風に、映画は最後のところでそうした「自覚ある戦士」と「自覚なき戦士」の答えをあえて出さない。


けれど、そうした政治とは別に、映画では個々の大統領とセシルの交流も描かれている。思いの外、大統領と交流する場面は少ないのだが、ケネディ大統領の死後にもらった遺品のネクタイに、丹念にアイロンをかける彼の姿が印象的だ。
ちなみに映画では描写されていないが、モデルとなったアレン自身はケネディの葬儀に招待されたが、葬儀から戻ってくる人をもてなす必要があるとして、ホワイトハウスに残ったそうだ(英語版ウィキペディア参照のこと)。なんという美談。
この映画を観れば否が応でも、2008年のバラク・オバマ現大統領誕生が、ただの政権交代以上の国家の1つの到達だと感じざるをえないのである。