いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

人の知識に不公平な人っていない?

「自分の知っていること」と「他人の知っていること」の間で、不公平な態度をとる人がいる。

もう数年前になるが、ある会合でこんなことがあった。


内田康夫も知らないんですかぁ???」


珍しいものでも見るように目を見開き、こう言われたことがある。「知らないんですかぁ???」には、驚嘆と侮蔑のニュアンスが込められていた。
そういえばブックオフの文庫コーナーの「あ行」でやたら売りに出されてるなとか、それぐらいの知識未満の記憶しかなかったので、その場は流したがしかし、その人の「知らないんですかぁ???」があまりに強烈だったため、不安になって家に帰って調べてしまった。

でも、こう言う人に限って、こっちが同じ「え、阿部和重を知らないのか」という知識の穴ぼこを見つけても、「ほーん、で?」という顔をされる。何なんだそれ。「ほーん、で?」という顔がふてぶてしすぎて、こちらは何も言えなかったのだが。
いまでもたまにこの話を思い出すから、個人的によっぽど衝撃的だったんだと思う。


これは教養の有無とか、そういう堅苦しい話ではない。その人の中で、知識がどのような秩序をなしているか、という話だと思う。


自分の既知のことを相手が知らない場合は驚き、自分の無知には関心がない。こういう人の中では、たぶん自分の「常識」を筆頭に序列が出来ているのだと思う。
図にすればこうだ。


「自分の知っていること」ほど知識として価値が高く、「自分の知らないこと」ほど知識として価値が低いのである。
でもこれは、もちろん嘘っぱちだ。知らないことに価値がないだなんて、余程の博覧強記でないとそんなことは言えない。


上図は少しよく書きすぎたかも知れない。


本当はこうかもしれないではないか。


ぼくからすれば、こうした秩序は非常に危険だと思う。
なぜなら、自分の興味関心に外れるものはこの階層の上の方になかなか上がってこない可能性が高いからだ。自分が「知らないこと」が上がって来ようとするたびにはじかれ、ピラミッドの底辺にある「ほーん、で?」の階層に落とし込まれてしまう。

ネットのある今の時代、非公開でないかぎり情報の価値なんてすべて平等に無価値だ。問題は、それをどうやって活かすかであって、活かすためにはやっぱり選り好みしない情報収集が必要になる。
自分の常識の砦をいくら誇っていたって、それは結局は砂上の楼閣に過ぎないんだよ、と数年遅れて負け惜しみを言ってみる。