いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】紙の月 85点

宮沢りえが、ふとしたはずみで巨額横領事件に手を染め、大学生・光太との虚飾にまみれた生活に溺れていく銀行の営業ウーマンを演じるクライム・サスペンス。『桐島、部活やめるってよ』の吉田大八監督がメガホンをとった、角田光代の同名小説の映画化。
多様な要素を含んだ原作と比べると、まず目につくのは主人公の梅澤梨花以外の登場人物の視点が排除されている、ということ。原作では中学時代から現代にかけて、梨花以外にも彼女と接した複数の人物の視点が入るが、本作では今の梨花と中学生時代の梨花がダイレクトに接続する。
それがどういう効果を生み出すかというと、両者が何も別物ではなく、現在の梨花の萌芽は少女時代の梨花にすでに芽生えていたということ、横領をする梨花も過剰にボランティアに入れ込む梨花の同心円上にあるのだということを、より強調する作りとなっている
もちろんそれによって後景に追いやられたり、なくなった惜しい部分はあるのだけれど、この構成はなるほど、と唸らされた。


こうしてより前景化してくるのが、「無償の奉仕」がもつ両義性だ。奉仕は誰かのためになされているはずだが、それは同時に、奉仕される者にとって絶対抗えない権力性(貸しと言い換えてもいい)となってしまうし、ときに奉仕は相手のためになるどころか、害悪にさえなる危うさをもつ。
田辺誠一演じる夫が、妻に贈られた腕時計よりグレードの高い腕時計をすぐさま買ってプレゼントするのは、この「奉仕のパワーゲーム」で上に立つためだ(ただ、この夫が梨花に仕掛ける醜悪な「家庭内マウンティング」の描写については、原作の方がさらに繊細で細やかであり、一日の長があるのは否めない)。


原作に比べると結構追い詰められていくペースが早くて、2時間ちかくドキドキしっぱなしだった。特に、原作にはない銀行内の人間関係の密度が濃くて、小林聡美に「ほんとに200万だけなの?」なんて言われたら、ぼくなら早速全部ゲロってしまうと思う。ストーリー上極めて重要な役を演じる大島優子も印象的。


この映画について「ストーリーがありふれている」という批判も目にする。たしかに、原作を知らなくてもある程度は展開が読めることは否めないが、ぼくはこの映画は細部にほどこされた演出も見逃してほしくないと思う。
たとえば、光太との逢瀬の日々は突然終わってしまうのだが、そのときに雑然と散らかったヒロインの部屋が上空俯瞰的な視点で映され、彼女どころか観客まで現実に引き戻される演出は見事だ。その他、本作では音楽のブレークが印象的で、80年代の邦画を思い起こさせられる。またその一方で、椅子で窓をぶっ壊すシーンの大きな音響にはびっくりさせられる。


「紙の月」というタイトルであるが、元々は「Paper Moon」という言葉の直訳で、本来は「たとえウソ(紙製の偽物)であってもそれを信じれば幸せになれる」という酷く卑屈な意味だ。
けれど、映画の本作では「ウソであるとわかっているからこそ、かえって自由になれる」とさらに一歩踏み込んだ解釈をしている。なにも、梨花は自分の幸せがいつまでも続くと思っていない。いずれ肩を叩かれるそのときまで、破滅へと突き進んでやろうという、狂気にも満ちた自己肯定感がその真意だったことが、これまた見事なタイミングで明かされる。


賛美歌「荒野の果てに 夕日は落ちて」をBGMに疾走する宮沢りえの姿が、ため息がでるほど美しい。ぼくはこんな軽やかでまぶしい落語者を今まで見たことがない。