いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】「FRANK −フランク−」が描く才能の残酷さ

才能というのは残酷なもので、たとえ科学的に立証は不可能でも、どうしようもなくそこに実在感をもってして"ある"のだ。なぜ自分でなく彼/彼女なのかといった問いは無意味だが、問いたくなる衝動を抑えきれなくなるほどには、才能がない者にとって才能がある者が立つ彼岸は憧れなのだ。

本作『FRANK−フランク−』は、予告編では否が応でもその独特の被り物に目がいきがちだ。事実、物語の中心にはマイケル・ファスベンダーが演じるこの、奇妙キテレツな男の謎があることは、いうまでもない。
しかし、本作は才能の話でもある。というのも本作は、才あるフランクという男よりもっとずっと、凡人の目線に寄り添っているからだ。


会社勤めの傍ら、ソングライターとしての活躍を夢見るジョンは、フランクという常にかぶりものをした奇妙な男が率いるバンドに、欠員が出たことから加入することになる。
会社を辞め、貯金を切り崩しながらアイルランドでのレコーディングに参加するジョンだが、彼とフランク以外のメンバーとの間には深い断絶がある。フランクの一言で加入したジョンだが、彼らはその才能を認めていないからだ。フランクも、実はジョンの作曲についての反応は曖昧だ(このあたりが実はリアルだったりする)。
ジョンはフランクの作曲の能力を認めながら、自分の才能のなさには気づけない。気づくことすらできないほど才能がないのかもしれない。
けれど、一度それに気づいたらどうなるのか……。コメディ然とした見た目ながら、本作はジョンとは別の登場人物でしめす結末は、結構辛らつだ。


フランクを中心とする擬似宗教的な共同体はいつしか、フランクの才能にただただ聴き惚れていたいという従来のメンバー(主にマギー・ギレンホールが演じるテルミー女)と、その才能をもっと世間に知らしめるべきとするジョンの対立となる。余談だが、凡人だが金だけは出すというジョンの立ち位置は、『ソーシャルネットワーク』でのアンドリュー・ガーフィールドに似ているかもしれない。


テキサスでの新人バンドのフェスティバルに招かれることになったバンドだが、そこで彼らを待っているのは挫折と、悲しい離別である。
ここで作品は、もう一つの才能についての残酷な事実を囁く――世間に広く認められる才能があると同時に、少数の人の間でのみ輝くささやかなそれがあるということを。後者は才能ではないというツッコミようもあるが、ぼくはそうは思わない。あまり知られていないからこそ輝く才能は、確実にある。
才能に振り回され続けた凡人としてラストシーンのジョンの背中を眺めると、ずっとさみしいものに見える。