いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】「アバウト・タイム」が教えてくれる、過去を変えるより大切なこと

映画『アバウト・タイム』はタイムトリップをテーマにしたSF映画といえるが、それが描くのは「大変だ! 歴史が変わって家族写真からボクが消え失せちゃう!」といったよくある作品とはまた異なる、大切なメッセージだ。


英国の片田舎に育ったうだつの上がらない青年ティムは、21歳の誕生日に父親からある秘密を打ち明けられる。その一家の男たちには代々、過去にさかのぼることのできるタイムトリップ能力がある、というのだ。
このタイムスリップの設定があまりに唐突で、雑にみえたため、「大丈夫かこの映画?」と少し不安になったが、この能力そのもののは、実はそれほど重要ではない。というのも冒頭で書いたように、この映画は「過去を頑張って変えるという使命」の物語ではないのだ。


ティムはタイムトリップで、自他の人生に訪れた難所を幾度となく修正する。キスする場面でキスをせずに女性に惨めな思いをさせたり、女の子との会話で気の利いた返答ができなかったり、そうした恋愛経験の乏しさゆえのイタい体験も、過去に戻って修正していく。そしてついに、彼は運命の女性と出会うことになる。

観客はこのあたりで、タイムトリップという設定自体より、ティムが生きる人生に魅了されるはずだ。魅力的で、なおかつちょっと癖のあるティムの家族、同居人、同僚、そして最愛の彼女。
レイチェル・マクアダムスが演じるこの彼女の可愛さがはちきれんばかりで、そら恋に落ちますわと納得できる。ただ、どうみてもイケてないティムにそこまでハマるかよ、というところは少し鼻白むが。

(信じてくれ、動画だとこれの100万倍カワイイんだ……)


こうした魅力的な日常の描き方には、それ自体に意味がある。本作の背景には、タイムトリップを使って無理やり変えるまでもなく、つねにすでに、ぼくらがいる偶然性にみちた現実は素晴らしいのだ、という思想がある。問題は、そのことに気づいていないぼくらの側で、もっと深く味わい尽くせ、というのである。
偶然性にみちた現実の象徴といえるのが、我が子だろう。先進医療に頼らないかぎり、どんな子どもを授かるかはぼくらにはわからない。それは偶然の産物なのだ。
けれど、彼らが一度この世に生まれた瞬間から、ぼくらはその偶然を、それ以外の姿では考えられないような必然性としてどうしようもなく愛おしく思ってしまう。その偶然性を、タイムトリップで「選び直し」などしたくはないのだ。
そしてその考えは、ティムのようにタイムトリップ能力を持ち合わせない観客の胸にこそ、強く深く響く――「過去に遡って人生を修正できる力がなくたって、現実は楽しくなる」と。そういう意味で、本作の邦題サブタイトルは野暮すぎるわ! という気がしないでもないが。


ここまででだいたい察しがついたかもしれないが、本作は今生きる「この世界」を強く肯定する、言ってしまえばかなり躁的な映画である。
そのため、そういう精神状態にない人の口に合わない可能性があり、「うるせーバーカバーカリア充氏ね!」と激怒されて終わりかもしれない。
かなり好みを選ぶかもしれないが、日々鬱屈している人で、それは「見方」の問題にすぎないのだと気づける範囲で鬱屈としている人にとっては、素晴らしい鑑賞体験になるかもしれない。