いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

ネタバレは偽ネタバレであってもネタバレか?

先日、ある映画を観ている最中、ネタバレをくらった。


「あっ、その映画って最後にお兄さん死ぬよ」


観ている途中にはっきりとおもいっきり。
勘弁してくれよと注意しつつ、気を取り直して最後まで観た。ここまでだと、世の中に転がる凡百の「ネタバレ」話である。
何がすごいかと言うと、
最後までお兄さんどころか、誰も死ななかったのである。ネタバレした方の記憶違いだったわけだ。


ここで問いたいのは、嘘のネタバレをされたぼくは「ネタバレをされた」といえるのか? という話である。ぼくの考えでは、「イエス」である。
もちろん、結果的に「ネタバレ」の内容は嘘で、事実とちがったのである。ぼくは結末を知らなかったのだから、そういう意味で「バレ」てはいないことになる。
けれど、「ネタバレ」はぼくの意識の側にはっきりと作用している。具体的にいうと、「お兄さんが死ぬ」と聞かされてから、そのお兄さんの一挙手一投足を「これから死ぬお兄さん」として見てしまった。こんな善良なお兄さんが「これから死ぬお兄さん」なのだ、と胸が傷んだ。いつまでたっても死ぬ気配がないから、しまいには「お兄さんはどうやってブチ殺されるのだろうか」とまで考えてしまった。エンドロールが終わった。お兄さんはピンピンしている。とんだ肩すかしである。
つまり、「ネタバレ」を訊いたことによって、ぼくの鑑賞態度は「お兄さんが死ぬ」ということを中心に構造化されてしまった、といえる。


漫画でも小説でもなんでもいいが、ネタバレが何を毀損するのかを考えた時、普通ぼくたちは結末を自らの鑑賞において「知る」という経験を奪われることなのだ、と考えがちだ。でも、ぼくはこの経験で思ったのはそうではないということ。
ネタバレの重大性は、「結末を知る」ことそのものよりむしろ、「自分は結末を知ってしまった」とネタバレされた側が思い込むことの方なのだ。


つまり、ネタバレであろうと偽ネタバレであろうと、鑑賞体験に影響するということ。
シックス・センス』でブルース・ウィリスは実は死んでいるとネタバレするのも、自分の性癖に気づいてない幼児性愛者だと「ネタバレ」するのも、初めて観る人の鑑賞体験を変えてしまうことに変わりないのである。