いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】実は映画についての映画「オズ はじまりの戦い」


時は1911年、舞台はアメリカ・カンサス。オスカー・ディングズ通称オズは、偉大になりたいという思いばかりが先走る奇術師(手品師)。興行で立ち寄った片田舎で気球に乗ったまま嵐に巻き込まれ、自分と同じ名をもつオズの王国に不時着する。「オズの魔法使」のオズが、大魔術師になるまでの"前日譚"を描くジェイムズ・フランコ主演のファンタジー映画。


いまさら「オズの魔法使」のゼロもの? とナメきり劇場公開時はスルーしていた不届き者であるが、サム・ライミが勝算なくしてそんな無謀な企画に乗る訳がない。

本作には、きわめて明確なメッセージがある。全編にわたり最新のVFX技術を駆使して描かれるそれは、映画そのものへの敬愛である。


「手品のタネ」は、主人公の奇術師という設定にそもそも埋め込まれている。奇術とは、この映画においてはすなわち、魔女から王国を救済するはずの魔法の偽物だ。予言をなぞらえるかのように現れた彼を王国民たちは魔法使いと信じるが、彼はただの奇術師であり、偽物なのである。そのコンプレックスが、彼の奥底にはある。


奇術が魔法の偽物のように、映画だって現実の偽物だ。現代のわれわれは十二分にそれをわかっているから、映画に完全には没入しない。いつも半歩後ろに引いた位置から「上から目線」で画面を解釈し、したり顔になる。たとえばこのブログのように。
しかし、本来そうでないだろと、本作は問いかける。原初の映画は、もっと"魔法的"だった。観客をその世界の虜にし、画面上のできごとをまるで今そこで起きていることのように感じさせ、驚き、笑い、興奮し、憤怒し、ときには涙させる。動かすのは人の心だけでない。一作の映画が歴史を動かすことだってある。偽物にだって、現実を変えることは可能なのだ。


思えば本作は、全編にわたりそうした映画本来の魅力が詰まっている。色鮮やかすぎる自然に彩られたオズの王国は非現実的で、それでも、いや、そうであるがゆえに「こんな世界に行ってみたい」という願望をもたずにはいられない。かつて映画が、旅行記を上映して観客を楽しませていたことを忘れてはならない。映画とはそもそも「行ってみたい彼方を映した映像」なのだ。


近年ではスコセッシの『ヒューゴと不思議な発明』において、同様のコンセプトが見え隠れするが、「映画についての部分」がとにかく歪なあの映画に比べ、本作は内容と意図が、ケンカせずに同居する。

中盤の仲間集めの件の中だるみ感はいなめないがそれでも、本作が伝える映画についての「何か」は、全く色あせないだろう。VFXも3Dも、それら技術そのものに価値があるわけでない。大切なのは、それらを使っていかに観る者の心を動かすか、この映画はそう訴えている気がする。


参考図書

映画館と観客の文化史 (中公新書)

映画館と観客の文化史 (中公新書)