いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】それでも夜は明ける(原題 12 Years a Slave)

1840年代初頭に、アメリカで自由黒人だったはずが奴隷として誘拐され、南部で12年間酷使されつづけた男性による手記を元にした映画。

奴隷制時代のアメリカを映画を描いた作品といえば、最近ではタランティーノの『ジャンゴ 繋がれざる者』がヒットしたが、「鞭打ち」のシーンの違いが、両者を分つ根本的な違いといっていい。『ジャンゴ』が史実をあえて踏みにじることで観客に痛快な気持ちにさせてくれたが、本作のそれは、かなり胸くそ悪い。何度かあるが、とくに後半部でのある女性が受けるそれは、シチュエーション的にもアレだし、また描写的にも血しぶきがあがっており、本当に暗うつとした気分になれる。


何よりも本作から伝わってくるのが、奴隷制というもののグロテスクさであり、滑稽さである。奴隷という存在様式がどういうものかぐらいは頭でわかっていても、人が人を所有物=家畜として扱うことが、本質的にどういうことなのか、それを本作を通して「直感」することができる。
中でも、『サイドウェイ』のポール・ジアマッティが演じた奴隷商人の振る舞いが印象的だ。奴隷を売る場面で、彼らの裸の胸板をまるで物のようにパンパンと叩いていく、その「叩き方」に、奴隷制度の本質を垣間見た気がした。個々の奴隷は文字通り「商品」なのだと。そのため、奴隷の母親と子どもといった血縁関係は、考慮するに値しない些末なもの、ということになる。
また、これから観る人には、奴隷が所有者に鞭を打たれたり、暴力を振るわれているときの他の奴隷の振る舞いも観察してほしい。彼らは「同胞」であるはずの他の奴隷の生死に、組織的に無関心を装う。かまえば自分が暴力を振るわれるからだろうが、本作の字幕にも登場する「奴隷根性」が根付いてしまっている証拠なのだ。

そんな奴隷の中でも、主人公ソロモンはイレギュラーな存在だ。奴隷として生まれた人が、奴隷として酷使されるのではない。読み書きができ、いわば近代的な市民としての自我が構築されているにも関わらず、奴隷として酷使されるのだ。そこには、彼だけしか味わえない2重の苦しみがある。ウィキペディアからの孫引きで恐縮だが、「自由黒人は、『黒人と奴隷は同義語という考え方に挑むことで常に奴隷所有者にとっての象徴的な脅威』と認識されていた」そうだ。

結果的に主人公の「夜」は明けるが、その他大勢の奴隷の「夜」が明けるのは、それからさらに10年あまり待たねばならない。主人公と他の奴隷には交流があり、それゆえに、両者の境遇を分つ線引きのあまりの根拠のなさに、われわれ観客は戸惑ってしまう。けれどそれは、奴隷制度そのものの根拠のなさなのだ。


オスカー授賞式でのはしゃぎっぷりがコラ画像として出回るカンバーバッチや、当代一の「這いつくばるのが絵になる俳優」ポール・ダノ、強情なプランテーションの主役のマイケル・ファスベンダーも好演している。オフビートな役で出てきたときのブラピは相変わらずで、いや、でもこれはちょっと美味しいとこもって行き過ぎじゃね?と鼻白むところもあったが、ご愛嬌。


押し付けがましい教訓めいたものは、ほとんど提示しない。けれど、いや、なのに、エンドロールで再び流れるソロモンらによるゴスペルから、歌声以上の何かを感じとってしまうのは、この映画に力がある証拠なのかもしれない。