いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】人生は作品であり、作品は人生だと教えてくれる映画「ビフォア・ミッドナイト」

イーサン・ホークジュリー・デルピー共演の恋愛映画「ビフォア〜」シリーズの第3作。
もう知っているよという人には鬱陶しいかもしれないが、いちおう説明しておくと、ホーク演じるジェシーと、デルピー演じるセリーヌは1995年に情熱的な"一夜の関係"を結び、続く2004年に運命的な再会を果たした男女である。そして前2作と同じ9年を経たあとの2人を描いたのが、この第3作『ビフォア・ミッドナイト』。

冒頭で、あっ、そうなったのね、という前作からの展開が早くも明かされるのだが、そこで「ここまでのあらすじ〜」という野暮ったいことは断じてしない。2人の会話の節々から、あとは観ているお前が察しろ、という演出。それがよい。
前2作を知っていてみるのもよいし、知らなくても完結した一作品としてでも十分楽しめるだろう。思わずクスっとなるセンスのいい会話が、ずっと聞いていたい気持ちになるのは、前作と同じだ。


観ていて、自分が不思議な感慨を抱いているのに気づく。スクリーン上の2人は9年たったという設定であるが、実際にこの2人は前作からおよそ9年を経ているのである。実際に2人の顔には小じわが見え始めるなど、年相応の老け方をしている。フェイスリフトで無理やりに若返ったり、特殊メイクでも過度に老ける必要はない。2人が前作を撮り終えたあとにすごした9年が、そのままスクリーンに映し出されているのだ。

それを考えると、不思議な気持ちになるのだ。映画ってなんなのだろうと。
ふつう我々は、劇映画とドキュメンタリー映画を別物にする。前者がフィクションなのに対し、後者はノンフィクションなのだと。けれどそこに、根本的な違いはないような気がする。画面に映っている人は生きとし生けるものであり、それは原義的な意味でフィクション=架空の出来事ではないのだ。


2人の関係性が変わった分、映画も前2作から映そうとしているものが変わってきているように思える。前2作から一転し、今回の2人は「日常」を生きている。この映画はそんな2人の長く長く続く平穏な、けれどかけがえのない日常のほんの一コマを切り取っている。
もちろん、日常とはいえそこは平坦ではない。今作でジェシーは、ある家族の問題を抱えている。じつはそれは冒頭から顕在化していて、たまに顔を出してはいたのだが、クライマックスに欠けてついにセリーヌの間で爆発してしまう。
その問題も、映画の最後では一時的にではあるが収まるが、本質的にはなにも解決してない。ただ最後の2人をズームアウトしていくカメラワークは、そんなイザコザだって、喉元過ぎれば素敵な日常として記憶化されていくことを、暗示するかのようだ。


とりとめのない日常のようでいて、実はそれら全てが「映画」になる。それはたとえば、毎日同じような軌道で沈んでいく夕日の眺めが、それでも、その一つ一つがたまらなく美しいように。この映画はそんな日常そのものが、美しい作品なのだと教えてくれるように思える。