いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】百合のリアル/牧村朝子

百合のリアル (星海社新書)

百合のリアル (星海社新書)

パリで国際同性婚した著者が語る、「女の子同士」のリアル
私は、女性として生まれ、最愛の妻と結婚をしました。同性愛者は“少数派”です。しかし、決して“少数”ではありません。自身が同性愛者であることを公表する人も増え、セクシュアルマイノリティの知識は、現代人の基礎教養となりつつあります。女の子同士はどこで出会うの? どうやってセックスをするの? 家族へのカミングアウトはいつ? 同性同士の結婚って可能なの? 私の経験からお話できることのすべてを、この一冊に凝縮しました。私と一緒に、「性」と「知」の冒険に出ませんか? あなたの“百合観”変わりますよ。
内容紹介

「百合」という言葉で、「百合もの」の作品を思い浮かべて手に取った人からすれば、やや意外といえる内容かもしれない。本書は、女性同性愛者の筆者によるセクシャルマイノリティについての教養新書といった体裁。


ただただ文章が続くのでなく、さまざまな境遇のキャラクターが登場し、「マヤ先生」の恋愛セミナーを受けるという対話の形式をとって進行する。対話形式の文章がなぜわかりやすいのかというのは以前考察したが、さすが「武器としての教養」を標榜する星海社新書だけあって、ここらへんの芸は細かい。間には、著者本人の二人称によるコラムも挟まる。


本書ではまず、セクマイそのものを語る前に、そもそも世の中には多様な「性」のあり様があるのだ、ということが解説される。生物学的な性(セックス)やジェンダーという分類はポピュラーかもしれない。では性同一性や、性的指向はどうだろう? さらに性的指向の中では、ヘテロセクシャルホモセクシャルはわかるだろうが、ではパンセクシャルアセクシャルノンセクシャルはどうか?
このあたりクィア理論を学んだ人には既出の知識も多いだろうが、初学者の「男性を愛する女性」「女性を愛する男性」という”常識”を、カジュアルにだがていねいに、解きほぐしていく。

後半からは女子高生の悩みに答える形で、「百合」の性愛に特化した論述が始まる。同性婚の制度がないことによるデメリットや、代替の制度、さらにはどうやってセックスするのかや、どこで出会うかなど、実践的に話が進められる。
奇しくも昨日、同性婚を罰する法律を設けたナイジェリアが世界的に非難されているという記事を読んだが、同性愛者解放が世界的潮流になっている現代でも、同性愛が文化的、宗教的にタブー視され、カミングアウトが危険である国があることも注意する。このあたりも極めて実践的。
このように本書は、自分の性になんの疑いもない人にとっての啓発の書であると同時に、自分の性について悩みがある人にとっての導きの書でもある。


読みながら、性とその性をもつ人物を分類する言葉が、これほどまでに多いのかと思い知らされる。
けれど同時に、こうして事細かに分類して行くことで、逆に弊害はないだろうか、とも思った。新たな分類が新たな多数派と少数派を生み、新たな排除と、新たな孤立を生み出すのでは、と。

こうした見方を見越したように、筆者は各カテゴリはあくまで便宜的なものにすぎないと断る。そして、「レズビアン」をアイデンティにするかは、本人の自由だと主張する。

 あなたは、「自分はレズビアンなのだろうか」と悩む必要はありません。レズビアンである前に、女性である前に、その他もろもろの国籍や年齢や宗教や人種などなどである前に、あなたはあなたです。あなたがあなたとして人を好きになった時、もし誰かがあなたを「レズビアン」というカテゴリに入れたとしたって、あなたは必ずしも「私はレズビアン」というアイデンティティを持つ必要はないのです。
p.113

カミングアウトも、したい人だけがすればいいのだとしている。
振り返ってみると、ぼくだって「異性愛者」だという強い自覚があるわけでない。「異性愛者らしい」服装や、「異性愛者らしい」話し方、「異性愛者らしい」読者のしかた、「異性愛者らしい」ラーメンのすすり方を心がけているわけでもない。
カテゴリはあるかもしれないが、それを意識するかしないかは本人次第なのだ。
最後に著者は「人を区別する言葉で決めつけず、その人個人の話を聞くこと」「自分を区別する言葉で決めつけず、自分自身が何をしたいか考えること」を読者に提案する。


差別心は、「二重底」の構造をなすものだと思っている。
口では寛容に振舞っていても、いざ当事者が自分の周囲にいたのを知った瞬間、自分でも思いもよらない嫌悪感を湧き出すことだって、ありえる。
例えば、性風俗産業に理解ある素振りをしていても、いざ自分の娘が従事するとしたら、辞めさせようとする人だっているだろう。要は都合よく内と外を区切って、外に向かって宛先のない寛容を振りまいているだけなのである。

この本を読んでセクマイを理解できたとしても、もし近親者や知り合いに当事者がいたとき、そのとき自分がどう振る舞うのか。
結局それが問題なのであって、この本で「知ったこと」をどう活かすか、それは読者の側に委ねられているのだろうなと、思った。