いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

【映画評】「炎上」が誰の身にでも起こりえる今だからこそ観たい映画「ハンナ・アーレント」

全体主義の起源』などで知られる哲学者ハンナ・アーレントの半生を、彼女が関わったことで知られる「アイヒマン裁判」を中心に描いている。

哲学者の映画というと、内容も難解のだろうと思われがちだが、そうでもない。それは、この映画でのアーレントの姿が、哲学者というよりもある種ジャーナリストに近かったからかもしれない。
そして、彼女をとおしてこの映画が描くのは、ユダヤ人大虐殺という特定のテーマを超え、ソーシャルメディアの普及で誰もが意見を公表し、世に問うことができるようになった今だからこそ、より重大になったテーマといえる。


映画は、戦時中にユダヤ人大虐殺に関与したナチス親衛隊の隊員アドルフ・アイヒマンが、潜伏先の南米でイスラエルの諜報部に逮捕されるところから始まる。彼を独自に裁こうとするイスラエルの裁判に、当のユダヤ人でもあるアーレントは傍聴を申し込み、許可される。

600万人ものユダヤ人の無慈悲な虐殺に関与したアイヒマンは、当時世界から「極悪非道な反ユダヤ主義者」であると思われ、アーレントの書くレポートも、その世論の意に沿う内容になると思われていた。
しかし、実際に裁判を傍聴し、膨大な資料を読み込んだ上でアーレントは、こう結論づける。彼は極悪人でも、反ユダヤ主義者でもなく、ごくごく平凡な官吏だったのである、と。
さらに彼女は、戦時下において、一部のユダヤ人指導者も虐殺に結果的に関与したのだ、と指摘する。
問題は彼らの個人的な気質なのではない。極限状態におかれた彼らが、自分で考えることを、判断することをやめたことこそが悪なのだと、結論づける。つまり、誰しもがアイヒマンと同じ境遇におかれれば、アイヒマンと同じような行動をとってしまう恐れがある――彼女はそういうのだ。


この記事が雑誌に載ると、彼女は圧倒的な批判を浴びることになる。
しかしその多くは、アイヒマンを部分的にも擁護し、被害者であるユダヤ人の一部指導者の罪を指摘したから、という趣旨だった。つまり、批判されるべき対象を擁護したから、そして擁護されるべき対象を部分的にも批判したから、という幼稚な内容なのだったのだ。映画ではさらに、アーレントによる記事を読んでもいないにもかかわらず、「みんなが批判するから批判する」という輩も出てくる。

そして観客はいつしか気づくのである。
大した考えもなくアーレント批判に与する者たちの姿は、戦時中に思考停止した結果、ユダヤ人虐殺の片棒を担いでしまったアイヒマン、そして一部ユダヤ人指導者、そしてアーレントの師であり、ナチス政権下に支持を掲げたことでその名を落とした哲学者ハイデガーの姿の相似形なのだと。

アーレントはその主張により、イスラエル当局から脅迫を受ける。また、それまで議論で対立することはあっても仲違いすることはなかった友人にも、縁を切られてしまう。
だがそれでも、彼女がその主張を曲げなかったのは、それが自分の考えに考えた末の結論であり、そしてその反論の多くが、扱うに値しないと考えたからだ。


先述したように、この映画のテーマの射程は、われわれ現代の観客をもとらえている。この映画で描かれる騒動は、さながらネット炎上そのものなのである。
ネットでは、毎日のように炎上が起きる。けれど、情報過多な現代において、いちいち原典をたどるのは面倒な作業だ。釣りぎみのタイトルや、恣意的なまとめだけで、その騒動をわかった気になり、即断する。騒動がより大きくなってからは、みなが批判しているのならきっとこいつは間違っていて、批判されて然るべきだろうと、批判してしまう人も出てくる。
しかし、批判とは本来原典の熟読の対としてなされるべき営みであるし、どれだけ多くの人が批判しているかという数で決まるものでもないのだ。

思考はたしかに孤独な営みであり、「祭り」の喧騒の誘惑にかられ、ついつい足を向けたくなることもある。しかし、その誘惑に負けて批判したその瞬間、あなたは考えることを、人類に唯一許された営為を放棄したことになる。


この映画は、アーレントをとおしてそのことを訴えているように思える。