いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】本当の問題は“自己否定感”の欠如、では?――自分を愛する力/乙武洋匡

大ベストセラー『五体不満足』で世に出て、近年ではTwitterなどで自身ももつ障害について活発な議論を繰り広げている乙武氏。
Twitterなどでの彼の発言を読んで、この人はなんてポジティブなんだ、と思った人はぼくだけではないはず。そんな疑問に答えるかのようなタイトルの本書『自分を愛する力』。
両親に育てられた息子としての立場と、数年間教師として子供にかかわった立場と、子育て真っ最中の二児の父親の立場から語りながら、自己肯定感について語っている。

ほとばしる自己肯定感でお腹いっぱい

Twitterでの発言の延長線上にあることはいうまでもなく、はじめから最後まで、目のくらむような自己肯定感に覆われている。
たとえばこれ。

 いま、僕はとても幸せな人生を歩んでいる。家族や友人、仕事や健康に恵まれ、これ以上、望むものはない。いつしか、僕の存在そのものが何らかの役割を果たせたらと思うようになった。

pp.80-81

この文章を書けといったらだれでも書けるだろう。しかし、この文章に信憑性を持たすことができるのは、おそらく乙武さんくらいだろう。こんな白々しいことを、たぶん本当なのだろうなと思わせるところに、彼から醸し出される自己肯定感の真髄がある。
タモリ小沢健二の歌詞を評した言葉をもじるならこうだ――「自分にはあそこまで自分を肯定できない」。

乙武さんのあの性格はどこにルーツがあるのだろう。個人的な気質というのはデリケートな問題で、先天的なものなのか、後天的なものなのかというのは即断できないが、この本を読むかぎり、氏のああした鋼のメンタル、鋼の自己肯定感というのは、両方が備わっていたからという他ない気がする。
乙武さんという大器に、ご両親と、それから4年まで担任したという小学校教師が遠慮なくいろいろ継ぎ足していった結果、というほかない。
ちなみに第1章の内容はおそらく自伝的な『五体不満足』とかぶるのだろうが、ほとんど未読に近いぼくには新鮮だった。

きれいごとだが間違ってはいない教育論

2章の教育論や3章の子育て論は、Twitterでの発言をみていたらある程度は想像がつくし、難しいことはいっていない。それは金子みすゞの詩からの引用である、「みんなちがって、みんないい」が象徴している。

ただ、ダークサイドに堕ちた金子みすゞとして「みんなちがって、みんな悪い」を標榜するぼくからすれば、「みんなちがう部分」がぶつかった際に「調停」が必要になってくるのでは、といいたくなってくる。
でも、これについても乙武氏はちゃんと書いている。
子どもの生き方を尊重しながらも、いつかは教師や親が間違いを指摘しなければならないときがくる。そのとき彼は児童にも、わが子にも、自分で考えさせようとするという。
それは「『親にいわれたから』なのか、『自分がそう思ったから』なのかで、彼のとらえ方は大きくちがってくるはずだから」(p.199)なんだとか。
ちょっときれいごとすぎね?とも思うのだけれど、これが実践できたとしたらそれはすごいうという教育論である。ここでダーク金子みすゞ、撃沈。

けれど、本当の問題は自己を肯定できないことではなく……

ただ、である。

ぼくがこの本に感じる根本的な疑問は、そもそも「自己肯定」しない人なんてそこまで多いのだろうか、ということである。実は多くの人は、いわれなくても自己肯定感にあふれているのではないか?

問題はそこからで、たとえばその人がAという立場の自分を肯定しながら、同時にBという立場の自分を肯定したときである。このAとBが無矛盾的ならばいいが、世の中そううまくいくことばかりではないだろう。Aの自分を肯定しながらBを肯定することが、矛盾になるということもありえる。

そうしたとき、多くの人がどうするか。ぼくも含め、たいていの人は「いや、これはしかたないことをなんだ」と自己弁護に走るか、そもそもAとBとで矛盾など起きていないと自分に目隠しする自己欺瞞の態度に陥ってしまうのだ。
乙武さんからみて自己肯定感が薄い人というのは、もしかしたらこうした自己肯定感の先で矛盾に差し掛かった自己弁護や自己欺瞞にさいなまれる人たちなのではないだろうか?


たとえば、Twitterなどで正しいと思ったことを声高に主張したとしよう。しかしそれが、いつも他者から肯定されるとも限らない。もしかしたら、完膚なきまでに否定されるかもしれない。そして、その反論が正しかったとき、われわれはどういった態度をとるべきか。

多くの人は、素直に謝って主張を撤回するようなことはしない。いや、できない。なぜならそれは、強い自己否定感を味わうつらい作業だからだ。


しかし、そこで自己否定を経ないかぎり、本当の意味で自分を愛せるのだろうか? 主張の非をみとめ謝ることとは、自己否定であるが、それは(過去の)自分に対する喪の作業でもある。それを通過してこそ、より深く自分を愛せるようになるのでは、とも思うのである。