いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

【映画評】マン・オブ・スティール ★★★★★

今夏の大作公開ラッシュのラストを飾る『マン・オブ・スティール』を観た。
周知のように、この作品はスーパーマンシリーズのリブートである。スーパーマンというと、日本ではクリストファー・リーブ版の映画(以後、06年のリターンズも含め"前シリーズ"と称す)が有名で、観たことはない人でもそのビジュアルぐらいは知っているというほど超有名なアメコミヒーローだろう。それをいまさらどうリメイクするのか。期待よりも不安という人も多いのではないか。


鑑賞した今の見地から結論からいうと、このリブートは大成功だったと思う。
先述したように、キャラクターとして人口膾炙したスーパーマンを、2010年代の今、どう作り直すのか。この映画の作り手たちの受けた使命とは、スーパーマンというもはや時代遅れにすらなりかねない存在、設定を、現代の世界にいかに「軟着陸」させるかということに尽きる。

世界観は、製作にクリストファー・ノーランが入っていることからか、新「バットマン」シリーズの重苦しいトーンを踏襲している。いわば「本来は荒唐無稽な話をくそまじめな顔してやる」というやつである。正直、予告第1弾は何の映画かわからないほど重々しい作りだった。

前シリーズはあっさりスルーしているが、そもそもはスーパーマンという存在自体が、人間にとって異常な存在なのである。
人並み外れたパワーや、空を飛ぶ能力、そんな人智を超えた存在を、人類が即座に理解し、好意的に受け入れるか。たぶんそこに、今作の製作者らは疑問を抱いている。「鳥だ!」「飛行機だ!」「いや、スーパーマンだ!」、どころの騒ぎじゃないだろ、というわけだ。
だから、この映画の前半では、クラーク・ケントがスーパーマンという自覚を持つまでの、苦悩に満ちた半生が描かれる。
特筆すべきは、その重厚かつ巧みな「語り口」である。地球シーンの冒頭、出てくるのは無精ひげの生えた浮浪者のような青年である。彼がただ者でないことは、行く先々での行動でしだいにわかっていく。社会の日陰で生きているような彼だが、そこにくるまでにも苦悩があったことは、巧みに差し込まれる回想シーンによって、次に明らかになっていく。

研ぎ澄まされすぎた感覚は彼の地球への適応を阻み、強すぎる力は人類の畏怖の対象になっても、仲間とはみなされない。前シリーズでもハイスクール時代はイケてなかったという設定が少し描かれるが、ものの比ではない。今作が描く半分は、「普通じゃないこと」で迫害される少年時代のクラークの重々しい苦悩だ。
そんなクラークを善導するのは、ラッセル・クロウ演じる実父と、ケビン・コスナー演じる養父の二人。この2人がアメコミに出ている事実自体が感慨深いが、もはやアメコミヒーロー映画の域を凌駕する彼らの演技は圧巻。この二人のMVP級の存在感が、特に前半をより重厚なドラマに仕上げている。


スーパーマンとして公になってからは、国家が彼を支配しようとする。人類はいまだかつて、人類意外に侵略されたことがないのだ。したがって、当然彼も自分たちの支配下におけると思い込む。しかしそれはできない。彼らにとってスーパーマンは、神以外で初めての「信じるしかない存在」なのである。
また、この映画は、もう一つの「信頼」を描いている。スーパーマンの母星クリプトンでは「戦士」や「政治家」という役割ごとに見合った能力をもつ子どもが計画的に「生産」されている。それに対して、スーパーマンはクロウ演じる科学者ジョー・エルが妻と自然分娩によって生んだ子どもなのである。これはつまり、世界に不確定をもたらすことなのである。子どもが善人になるか悪人になるかはわからない。それでもなお、わが子を信じ、導く。これはふたつの種類の信頼と、それに応える英雄の物語なのだ。



後半、今回の敵ザッド将軍一行が地球に降り立ってからは、打って変わってお祭り騒ぎモードにギアチェンジ。とくに打撃で吹っ飛んだ側が山やビルを突き抜けていく描写は、ドラゴンボールやないかい!!という脳内ツッコミが幾度も入ったがご愛嬌。連載終了して20年近くたっても、DBの戦闘描写が乗り越えられていないと考えれば気分もよくなるもの。



ところで、このリメイクの成功の一因として、「スーパーマンの正体」という点にこだわっていないところもあげれる。
前シリーズでは、どおおおおおおお考えても同一人物にしか見えない2人を、劇中のロイスをはじめとする人類は、一切気づかない。スーパーマンにゾッコンのロイスでようやくうすうす気づいてます、という程度である。このサムいコントのような設定を、今作は排除している。そこが素晴らしい。
ヘンリー・カヴィルも、前シリーズでの外見からただようヤッピー臭が脱臭されていて、素朴でワイルドな新しいクラーク・ケント像を構築している。
またあの変態的なコスチュームも、真っ赤なブーメランパンツは排除し、全体的に暗めのトーンに持っていき、クリプトンの戦闘服風にアレンジして、なんとか現代に間に合わせている。


スーパーマンを作る上で鬼門なのは、スーパーマンという存在自体が強すぎるということである。今作でもやはり、地球軍は彼とクリプトン人の凄まじい戦いの最中、彼らに止まる蚊ほどの役割りしか果たせていない(最後にひと刺ししてはいるが)。今回もスーパーマンは地球上では無双状態で、次回DC版アベンジャーズといえる「ジャスティス・リーグ」でのバットマンと本当に共演できるのかという不安が残る。
が、そんな明後日の不安を感じているよりも、早くもう一度観ておきたくなるような一作。