いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

就活のエントリーシートに書くことで経験を汚してしまったような気分になる話

大学の後輩に今年就職活動に臨む3年生の子がいる。その子は野心的で、1年の頃から就活にそなえてビジネスサークルに加入したり、フリーペーパーを作るサークルに入ったり、意識高い学生が集うイベントに参加したり……とまぁいろいろ手広くやっていたわけだ。それらの経験は、エントリーシートや履歴書、あるいは面接で聞かれる「学生時代に力を入れて取組んだこと」を埋めるのに役立つわけだ。

学生時代にサークルや部活に所属せず、かといって学業の方にもそれほど身を入れてとり組んでいたわけでなく、その手の空欄を埋めるのに苦心したぼくからすれば、喉から手が出るような経験の数々だ。

けれどその子によれば、今時そんな経験をしている大学生はいくらでもいるので、大した差別化はできないんだそうだ。これぐらいするのは「最低限度」なのだという。
そんなことないだろうと思ったが、たしかに、彼女の身になって自分でそれらをいざ言語化してみようとすると、それらの経験の固有性というか特殊性というのははがれ落ちていき、結果的にひどく凡庸でありふれたものなってしまうような気がする。


なぜその残念な感じがリアリティをもってぼくに想起されたかというと、実はぼくも現役の就活生のときにそういう気分を味わった経験があるからだ。


大学時代になにもしてこなかったと書いたが、空欄を埋めなければ話が進まないので、それでもなけなしの体験をぼくは書いては提出していた。なけなしといっても実はそのユニークさにおいてはけっこう自信があったのだが、それらの経験をいざESの欄に「私」という使い慣れない主語で落としこみ、さらに採用担当者におもねり若干マイルドに加工していったとき、できあがった文章は酷く凡庸でありふれたもののように思えたのだ。
面接でもそれは同じだ。自分がどれだけユニークだと思って語った経験も、自分の口から語られるそれは酷く凡庸で、それを聞いている自分自身がどんどん嫌になっていく。そんな経験は一度や二度ではない。
そうなってくると、元の自分が大切にしていた体験そのものが、就活という打算に利用したことで汚れてしまったかのような、嫌な気分になる。
たとえ面接は上手くやり過ごせたとしても、終わったあとに独特の敗北感というか、屈辱感に襲われることになる。


入力時にはあんなに瑞々しく、豊穣だった体験を、いざ出力して第3者に伝えようとなると、とたんに凡庸でつまらないものになる。この経験は久しく体験していなかったが、冒頭の彼女と話しているうちにありありと思い出した。


じゃあ、もっと表現をねれば、面接でも雄弁に自分の体験は語ることができるんだろうか。多分そういうことではないとおもう。「鉄板ネタ」にすれば、それはそれで使い古すことによって、自分の中で嫌なものになっていくだろう。
きっと真相はこうだ。「学生時代に力を入れて取組んだ」ことがいくら突飛であろうと、いまそこで出会った面接官に話すとなると、たいていの話など凡庸にならざるをえない。
けれどそれでいいのである。面接官がそのとき見ているのは、おそらくそんな凡庸な経験を熱心に語る「受験者そのもの」である。その受験者がうちの会社にあっているかどうかを見ているのであって、内容レベルにはそこまで頓着していないのだろう。

こんなことは、たぶん多くの就活バイブルでいわれている。けれど、それらの参考書がどれだけ口酸っぱくいっても、大学でさまざまなことに手を出して、経験をやたら増やして就活への保険をかけたいという大学生たちの心理の背景には、「自分そのもの」にそれほど自信がないからだろう。自分そのものにそれほどの価値がないと思えるから、そうした経験で塗り固める。多分みんなそうだ。ぼくだって、もう一度大学生をやるならきっとそうしてる。