いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

首から下だけ女装したおじさんの目的は何だったのか?


昨日の話題のつづき。
結局、きのうの水着の話は、人前ではどのような格好が許され、どのような格好が許されないかという公衆道徳の問題に行きつく。その問題に関係するような出来事が、最近自分の身に起こった。


ある鉄道に乗ったときのことだ。朝早かったので頭はボーっとしていたが、その人が乗ってきてからは目が覚めてはっきりと覚えている。真向かいに、オッサンが座ったのだ。

顔はまごう事なきオッサンである。それだけなら、目的地までを睡眠時間に充てようというぼくの当初の予定は変わらなかっただろう。

そうならなかったのは、オッサンの首から下の出で立ちが、キャミソールにミニスカート、そしてその間からは完璧な無駄毛処理を施したすねが二本飛び出し、足にはサンダルという姿だったからだ。

彼の登場により、車内には一瞬であの「お、やべぇのが乗ってきたぞ」という独特の気まずさが漂った。その気まずさはぼくが目的の駅で降りるまで20数分間、乗客の陣容を代えながら持続した。


ここで問いたいのは、オッサンのかっこうそのものの是非ではない。正直にいえば気色悪いと思ったが、女装をしたければすればいいんじゃないだろうか、と思うのだ。その点で議論するところはない。

しかしその一方で、このオッサンの女装は「どこに重点を置いているのか?」ということが、猛烈に気になる。
もし、純粋に「女装がしたい」という願望からくる女装であれば、先にも書いたように我々が不快に思っても、彼がそれをしたいのだからしかたないのである。彼の女装を止める筋合いはこちらにない。


ただ、首から上が完全にオッサンのままの彼にとって、女装そのものが目的というのは、少し考えにくくはないだろうか。
というか、あの様相を「女装」と呼んでいいのか、今でも決めかねている。女装家やクィアに詳しくないので、もしかしたら首から下だけ女装というのはその分野ではポピュラーなのかもしれないが…。


ぼくがここで問題にしたいのは、もし彼の女装の目的が、他人から気持ち悪がられたい、不快に思われたいということだったとしたら、という仮定である。もしそうならば、それはちょっとばかりたちが悪い。

というのもこれは、自分の性的願望の充足のために、見ず知らずの他人を有無を言わさず共犯者に引きずり込む行為だからだ。それは露出狂と変わらないだろう。

いや、露出狂の方が捕まるからまだましなぐらいだ。このオッサンはそのように他者から不快感や気持ち悪がられることを目的としていたとしても、局部が出ていない以上、捕まらないだろう。女装したいからしたいんですと言われたらそれまでだ。


だから、オッサンが不快にさせることが目的で、現にこちらが不快にさせられても、僕らは泣き寝入りするしかない。泣き寝入りさせられたうえで、そのことに腑に落ちない感情が残るのは確かなのである。