いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

NPBの不祥事から考える責任者の最低条件

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130614-00000053-asahi-base

もうこうなったら我々はお手上げである。
これまで、統一球変更を「知らなかった」という加藤コミッショナーの発言に対しては、「知ってたのに知らないフリをしているんだ!」という意見が大半を占めていた。
しかし、蓋を開けてみたら事態は全くちがった。加藤氏は知らないフリをしていたのではない、"知れなかった"のだ。これは純粋に認知能力の問題である。そうならば我々にこれ以上追及する術はない。


上の記事で、記者が今年4月の数値が高かったことに疑問を持たなかったのかと質問しているが、なにもここで今年の統一球の規格変更について聞くというまどろっこしい順序を通らなくてもいいのである。
なにしろ、11年と12年の統一球はそもそも基準値を下回っていた。いわば欠陥品だったのだ。
つまりここで本当に問われるべきなのは、昨年までの検査結果と今年の検査結果を比べて統一球が変わったことに気づけなかったのかという問題ではなく、11年12年と基準値と検査結果を比べてどちらの数字が大きいかわからなかったのか、という問題なのである。
これは単純な算数の問題である。
検査結果を毎回見せられていたにもかかわらず、測定した値が基準値の下限を下回っていると加藤氏が判断できなかったとしたら、もうこれは純粋に認知の問題である。加藤氏はそれなりに名のある大学の法学部を出たと聞くが、文系だから数字が苦手だったのだろうか?


組織の長というのは責任者のことである。
今回の一件でひとつ、大きな発見があった。それは、責任者には責任を取る能力がある人がなるべきだということだ。
当たり前のことだろと言われるかもしれない。
しかし、今日までのこの問題の流れを追っていくと、加藤良三氏には二重の意味で責任を取る能力がなかったことがわかる。一つには「責任を取る気がない」という意味で。もう一つは、「責任を取りたくても取るための認知能力がない」という意味である。なにしろ、二つの数の大小を見極められないのだ。

そういう点で、前日の会見で氏が12球団への反省を促した"迷言"は、もちろん聞いた時点では開いた口がふさがらなかったが、今にしてみれば少しは納得できる。責任能力のない人物を責任者に雇った12球団にも、非があることは間違いない。


と、半分冗談でここまで書き進めてきたが、次期コミッショナーには責任能力があり、なおかつ「野球が大好きな人」がなるべきだと思う。本気でそれは思う。「野球が大好きな人」だったら、こんなことにはならなかっただろう。米国にコネクションがあるとか、野球の国際化だとか、そんなことはとりあえずどうでもいい。金輪際、目の前の「プロ野球」を大切にできない人間にコミッショナーにはなってほしくない。

野球に詳しくなかった人の中には、今回の問題で今まで各球団のボールの規格が統一されていなかったという事実に驚く人も多い。そして統一球になったことを評価する人だっている。けれど、本当に野球が好きでスタジアムに足を運ぶ人は、球の規格の統一なんてあまり関心がないと思うのだ。


生の野球観戦で、もっとも観客席が沸く瞬間といえばいつか。何を隠そうホームランが飛び出した瞬間なのである。エースの好投で三振の山を築く。あるいは好守備によって味方のピンチを救う。そんな場面だって楽しい。けれど、それらの光景は遠くに霞んでしまいがちだ。とくに外野席では。
球場での生観戦でもっとも華があるのは、そしてどの位置の席からでもしっかり見届けることができるのは、やはり球場にアーチがかかるホームランなのである。あのダイナミックな放物線をみるために人は球場に足を運んでいるのだ。
ボールを統一規格にすることに心血をそそぐ。それはそれでいいことだろう。けれど、2011年12年と2年間、野球ファンは打者がかけるそのアーチを眺める機会の、その大半を失った。これは統一球(それも欠陥品)によって奪われたといっていい。
ホームランの少なさにファンは不満を漏らし続けた。しかし、その声に加藤氏が耳を傾けることができなかったのは、おそらく氏自身が、野球の生観戦の醍醐味を知らなかったからではないか。


奇しくも今日、同じ加藤姓をもつ日本人高校生がMLBの名門ヤンキース入団を決めたという喜ばしい報道が出た。もうこれ以上腹の立つ話題で加藤という姓の野球関係者のニュースは読みたくないものである。