いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

タランティーノ『ジャンゴ』にみる差別の構造を強化する「被差別者」

タランティーノ監督最新作『ジャンゴ 繋がれざる者』を、公開初日にみてきた。

黒人奴隷のジャンゴ(ジェレミー・フォックス)が、賞金稼ぎを生業にする歯科医キング(クリストフ・ヴァルツ)の手を借り、かつての主人らへの復讐と、離ればなれになった妻を奪還する旅に出る西部劇。
毎度のごとく、既存の西部劇へのオマージュというか、サンプリングなんだろうなーという描写がたくさんでてくる。なんだろうなーというのは、そもそもぼくが西部劇に疎いからだ。それでも、それらの描写が鼻につかないのは、作品自体がめちゃくちゃおもしろいからだろう。

ジャンゴはウィル・スミスがやるという案もあったらしいけど、ジェレミー・フォックスで本当によかった。ウィル・スミスの「軽いジャンゴ」では、この映画での重々しい差別という背景が伝わらなかっただろう。フォックスの苦役を黙々と耐え忍びそうなあの雰囲気だからこそ、後半自由へ解き放たれる場面の爽快感が増すのだ。ランダ大佐、もといクリストフ・ヴァルツも、『イングロリアス・バスターズ』『おとなのけんか』とは別の引き出しを見せてくれている。いやぁ、好きだなーこの人。

前作『イングロリアス・バスターズ』もそうだったけれど、最近のタランティーノは作品に政治的な論題をとりあげる傾向がある。
しかも、そこに込められたメッセージは至極真っ当というか、きわめて政治的に「正しい」のである。それを情感たっぷりに堂々と描ききるから、観ているこちらがちょっと恥ずかしくなるくらいだ。


けれど、今回彼が差別について描いているのは、それだけでもない。今作『ジャンゴ』には、「差別の構造」についての彼のある深い考察が含まれているように感じたからだ。


とりあえず整理すると、この映画には差別に関しての5つの違う立場の人間が登場する。


1つ目が、自分を苦しめる差別の構造を打ち破り、自由を生きようとする男ジャンゴの立場。


2つ目がキング医師の立場。彼は奴隷制を嫌い、ジャンゴとも対等なビジネスパートナーとして接しようとしている。後に彼が「ナチス親衛隊将校」に"転生"して、ユダヤ人を虐殺しまくるというのはなんとも皮肉な話だが。


そして3つ目が、白人差別主義者の立場だ。
この映画では、ジャンゴが復讐をもくろむ大農園の白人主人や、レオナルド・ディカプリが演じる奴隷商人カルヴィン・キャンディがそれにあたる。とくにレオ様の役柄については、「映画史上最悪の極悪人」というふれこみまであった。否が応でも、ランダ大佐的な何かを期待してしまうが、結論から言うとその「悪」に期待して観に行くとやや肩すかしを食らうだろう。
たしかに「骨」の講釈を足れる場面などは、さすがディカプリオで見入ってしまうものがあったが、「悪」としての魅力はそれほどない。
なぜか。
端的に言うとやっている「悪」がショぼいというのもあるが、それ以上に、彼は差別の正当性を「素朴に信じている」だけだからだ。
そういう意味で、彼らの存在は「差別の構造」の最もな受益者ではあるけれど、そんなことは誰もが知っているような「当たり前の話」にすぎない。


さらに4つ目が、ジャンゴと同じ奴隷であるが、檻の扉が開け放たれても自分から逃げようとしない、いや、逃げることの出来ない奴隷達の立場。彼らが動けないのは、「差別の構造」があまりに内面化されすぎたため、奴隷以外の自分になることができない、なり方を知らないからだ。彼らは、ジャンゴとネガポジの関係を作っている。


そして最後の5つ目。
ぼくがこの映画を、「差別の構造」という観点からみてもっとも巧妙な存在だと思ったのは、サミュエル・L・ジャクソン演じる黒人の老召使いスティーヴンという立場だ。
彼こそが「差別の構造」というものの複雑さを、もっとも体現しているのだ。
ネタバレを恐れつつ書くと、彼は登場して、まずジャンゴの扱いに対して彼の主人キャンディ以上に怒りをあらわにする。それは、黒人であるにもかかわらず奴隷でないジャンゴが、黒人が差別される構造をかく乱させるイレギュラーな存在だからだ。

なぜジャンゴが奴隷でないことを、同じ黒人であるスティーヴンが許せないのか。何を隠そう、彼は被差別者という立場における少数派の「受益者」、つまり「名誉白人」なのである。
もし、ジャンゴという存在が「あり」になってしまえば、「差別の構造」そのものが否定されてしまう。「差別の構造」が否定されるということは、黒人奴隷らを支配する彼の立ち位置自体が否定されることを意味する。
まっさらな白人ではない彼が、自分のご主人様以上にジャンゴを許容できないのは、「差別の構造」とそこから自分が恩恵を受けているということについて、白人以上に敏感だからだ。
彼は、先に上げた4つ目の「差別の構造」が内面化された奴隷らともかぶる所があるが、決定的に違うのは彼が「差別の構造」を熟知し、それをよりいっそう強化したいと考えていることだ。強化すればするほど、彼の立場は安泰になる。


身体が少し不自由な彼が、クライマックスでああいうことになるというのは、彼が弱者の皮を被った「既得権益者」であることを、より際立たせることに成功している。

被差別民がみな均質に差別されているというわけではない。その中には、「差別の構造」を戦おうとせず、むしろその構造を強化する側にまわって受益をすする輩もいる。その構造をこの映画は活写しているのだ。
彼のエピソードを最後にもってくるあたりに、タランティーノはそれを意識的に描き、告発しているように思わざるを得ない。


とにもかくにも、今年観るべき映画10本には間違いなく入る快作だ。