いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

AKB対談であらわになった宇多丸との「すれ違い」と、秋元康の「勘違い」

先週の土曜日に放送されたラジオ番組「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」内でオンエアーされた宇多丸(以下敬称略)とAKB48の総合プロデューサー秋元康の対談が、一部で話題になっている。

秋元康氏「AKB 万策尽き果てた」 - ライブドアニュース

結論からいうと、めちゃくちゃ面白い対談だった。まさに「神回」というのはこういうものをいうのだろう。


もちろん、この対談が行われた前提として、先の峯岸みなみの丸刈り謝罪騒動があることは、いうまでもない。
この番組ではこれまでにも、宇多丸と映像コレクターのコンバットRECらが、アイドルに「負荷」を加えるという需要の仕方は正しいのか、俺たちは「残酷ショー」を見て喜んでいるだけなんじゃないか、という議論を繰り返してきた。峯岸騒動とその後の炎上は、そうした問題がついに表面化した形なのだといっていい。宇多丸らの念頭には、岡田有希子の飛び降り自殺という彼ら古参ドルオタらが身をもって味わった苦い経験がある。

対談では、スタッフから伝えられ秋元が最初は「短くしたんだろうな程度」に思っていたという丸刈り騒動当時の生々しい状況や、そもそも問題の発端となった「恋愛禁止令」(秋元自身は放送内で「恋愛禁止条例」と呼んでいる)の存在とその是非、昨年AKBを卒業した前田敦子が卒業を発表するまでの顛末、さらにはAKBの楽曲論にまで話題が及んだ。

あくまでぼくの印象であるが、秋元康は包み隠さずにしゃべっているように感じた。この放送についても何か企みがあるにちがいないと勘ぐる人がいるとすれば、もうその人には何を言っても無駄なのだろう。
そのように秋元に赤裸々に語らせたのは、対談相手でありインタビュアーでもあった宇多丸の功績が大きい。年長者であり業界の大先輩といえる秋元に対して、礼を失することなく、かといって遠慮もせず、納得のいかないところはとことん追求していった姿勢には、「対戦相手」としてすばらしいものを感じた。
たとえば「恋愛禁止令」は「ネタ」だという秋元のほとんどごまかしに近い発言に、即「(ネタとはいうがそれに対して)ペナルティがあったのでは?」と鋭く切り返し、秋元が言いよどむ場面もあった。町山智浩との「ハートロッカー論争」(Google先生を参照のこと)の時も感じたが、実はこの番組の「ガチさ」も、AKBに負けていない。

冒頭に書いたように、この対談は面白かった。しかし、大満足かというと、そうではない。
というのも、納得がいかない、もどかしい思いになった箇所がいくつかあるからだ。評するならば、それは二人のある「すれ違い」と、秋元のある「勘違い」についてだ。

秋元康宇多丸の「すれ違い」


先に書いたように宇多丸は、峯岸騒動をとおして露見したAKBのはらんでいる「残酷ショー」的な危険な因子を問題にしていた。秋元康もそれに応答はしているのだが、どうも話がかみ合っていないのだ。

それはなぜか。
聴き直してみてわかったが、宇多丸が峯岸が動画で晒されたということ自体を問題にしているのに対して、秋元康は騒動後にネットを中心に起きた「炎上マーケティング」疑惑の方に、目を奪われているのだ。

ここから、峯岸の動画問題そのものへの秋元の関心は、薄いのではという印象が見てとれる。対談の終盤では、AKBメンバーの精神的ケアを気にかけているという旨の発言を秋元はしている。しかしそれを鑑みても、そこは批判されてしかるべきなのかもしれない。
ただ、ここで興味深いのは、なぜそのような「すれ違い」が起きるのか、ということの方だ。なぜ「炎上マーケティング」を言い募られることに、それほどまでに言及するのか。推測の域を出ないが、裏で自分が糸を引いているという類いの「炎上マーケティング」疑惑をかき立てられることに、それほどまでに秋元が参っている、追い詰められているということなのではないだろうか。

そしてこれは、次の「勘違い」にもつながっている。

秋元康の「全てを見せているから叩かれる」という「勘違い」


秋元は対談中で、AKBは「全て見せているから叩かれるんだ」ということをしきりに語っている。
「全てを見せる」――それは、(モー娘。などの例外はあるものの)これまで秘密のベールに包まれていたアイドルへのアンチテーゼとして、秋元が「会いに行けるアイドル」AKBにおいて実行してきたことだ。彼は、AKBにおいて推し進めてきた方向性が行きすぎているからがゆえに叩かれているんだと、自分に言い聞かせているかのようにも思えた。

けれど、ここにも疑問が残る。

まず1点、はたして「AKBは全てを見せているから叩かれているのか?」。
少なくともぼくの周りでAKBを「裏側まで見せすぎだ」という理由で叩いている人など、見たことがない。メディア露出が多すぎてウザいという声は腐るほど見たが、それはここで秋元が言う「全て見せている」とは意味が違うだろう。峯岸の丸刈り動画については「何もそこまで見せなくても」という意見があっただろうが、ここでいう「全てを見せる」というのは、握手会や総選挙、Google+での活動や、ドキュメンタリシリーズなど、AKBの活動全体を指していっていると考えた方がいい。
しかし、叩かれるもなにも「全てを見せる」という「ガチさ」が大当たりしたがゆえに、AKBは社会現象にまで発展したのではないか? 
そう考えると、「全てを見せているから叩かれている」という発言には、疑問を抱かざるを得ない。


そしてもう1つ、ここからが最も根本的な疑問。
そもそも、「AKBは全てを見せている」のだろうか。
結論から言おう、AKBは全てを見せてはいない。いや、AKBにしろ誰にしろ、「全てを見せる」ことなど到底不可能なのだ。
たとえ本人たちが、「全て見せきりました!」といっても、ファンは「いや、まだだ!隠している!」と言い張れる。「全てを見せる」というのは、一生たどり着くことのできない無限遠点に近い。それは、ベールに包まれた「何か」を楽しんでもらうという需要のされからを放棄した瞬間から、AKBに課された決して逃れられない宿命のようなものだ。


同時に、「全てを見せている!」「ガチだ!」「ヤラセはない!」とAKB=秋元康の側が言い張れば言い張るほど、見る側も「はがし切れていないベール」に必要以上に注目してしまう。
その「はがし切れていないベール」の裏をファンやアンチの想像は何で埋めるか――何を隠そう秋元康その人なのである。「はがし切れていないベール」の裏で、プロデューサーの秋元が裏で糸を引いていて、結果的にすべてはAKBに利するようになっているのだろ? とそこに、全てを片付けてしまう発想が生まれてくる。


以前、内田樹による陰謀論のメカニズムの解説を引用したことがある。
陰謀論とは、ある一人の企みによって物事がすべてが動いているとする発想のことだ。
まともに考えるならば、これほどまでに大所帯になったアイドルグループで起きることを、一人の人間が全てコントロールできるはずがないことがわかる。
コントロールできないという意味では、AKBを受け止める側にもいえる。もはやAKBは固定ファンだけでなく、一般層の反応にも気を使わなければならない。秋元は「誤差」という言葉で表現していたが、固定ファンにとっての「常識」も、一般層にとって「非常識」である場合もある。その「誤差」が彼を苦しめているようにもみえた。
秋元一人に全てを制御できるはずがない――それは普通に考えれば当たり前のことである。けれど、彼を主語にした陰謀論が後を絶たないのは、何を隠そう彼自身がベールに包まれているからだろう。AKBがフルオープンのようで全くもってオープンでないというのは、まさに、彼女らのプロデューサー秋元康がオープンでないということと、ほとんど同義なのである。

その点で、宇多丸の秋元に対しての投げた「秋元さんはもっと前に出るべきである」という結論めいた意見は、おそらく的を得ている。AKBが「全てを見せているから」叩かれているのではない。秋元康本人があまりに何も見せないから、何か裏があるのではないかと叩かれてきたのである。


しかし、皮肉なことにこの対談自体が、「もう万策尽き果てた」「何を言っても揚げ足をとる人がいる」などとありのままの心情を吐露する秋元を表に出した。だからこそ、この対談の功績は大きい。ベールに包まれたアイドルプロデューサーでも、テレビに出演したときの気取った文化人でもなく、初めて「人間秋元康」をかいま見れたような気がした。



ここからは完全な余談であるけれど、個人的にはアイドルのプロデューサーなど、完全な黒子に徹していればいいのに、と思う。極端な話、架空の人物をでっち上げてしまえばいいのだ。どちらに転んでも、存在が断定されることにメリットなどないのだ。
秋元康をはじめとするプロデューサーが、公の場にノコノコ現れるのはなぜなのか。それは自己顕示欲か、経済的理由か、あるいは人に頼まれているのか、それはわからない。

けれど、アイドルのプロデューサーであるという公の立場を引き受けた瞬間から、アイドルの身に起こること全てに、プロデューサーの「仕業」なんだろという自分宛の批判が届く。釈明しようと、弁明しようと、説明しようと、説得しようと届き続ける。AKBに「全てを見せる」という宿命があるならば、秋元康というプロデューサーがとらわれた宿命とは、まさにそのことなのだと感じる。