いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

いい加減デジタルネイティブのイメージを書き換えるべきときなのかもしれない

昨日からこの記事が、賛否両論入り乱れて話題になっている。

13歳の息子へ、新しいiPhoneと使用契約書です。愛を込めて。母より(Hana.bi) - BLOGOS(ブロゴス) 13歳の息子へ、新しいiPhoneと使用契約書です。愛を込めて。母より(Hana.bi) - BLOGOS(ブロゴス)

13歳の息子さんに、クリスマスプレゼントとしてiPhoneを買い与えたお母さんによる自作の「使用契約書」を紹介している記事。18か条からなるこの「使用契約書」が、議論の中心になっている。


この「契約書」に対して激烈な反応をしめしている人もいて。

iPhoneの使用契約書の記事を読んで感動する人は親になる資格などない。 iPhoneの使用契約書の記事を読んで感動する人は親になる資格などない。

これなどは、「契約書」とそれを書いたお母さんへの嫌悪感を通り越し、それを賛美する人々たちに思い知らさねばならん、警告せねばならんという義憤やら使命感やらにまでかられ、独特のバランスの文章に仕上がっている。

ぼく個人的に言うと、心情的には後者のこの匿名さんの記事に近い部分がある。正直な話をすれば、元記事の18か条は文体もあいまってすこし気持ち悪い。
けれど、気持ち悪いことと正しいことが両立する場合もあるのが世の常で。
書き方がちがっていたら、もしかしたら積極的に支持していたかもしれないし、このお母さんはそんな的外れなことをいっているようには、どうしても思えないのだ。
第一、息子さんはiPhoneの所持を義務化されたわけじゃない。これはあくまで「プレゼント」であって、こんなめんどくさい契約書があるなら「いらね (゚⊿゚)」と息子さんがiPhoneを突き返してしまえば、それでおしまいなのだ(親子関係もおしまいかもしれないが)。
それに、将来有望な息子さんであるならば、「契約書」の中に“穴”を見つけ、そこにつけ込むべきである。もしかするとお母さんは、訴訟社会アメリカをたくましく生きていくための知恵を、この契約書によって息子さんに授けたいのかもしれない(半分冗談。半分本気)。


デジタルネイティブという言葉がある。この記事の主役の一人、13歳の息子さんはまさにデジタルネイティブだ。今から4年前に、NHKがドキュメンタリで大々的にデジタルネイティブをとりあげたことを覚えている人はいるだろうか。

NHKスペシャル|デジタルネイティブ 〜“次代”を担う若者たち〜(仮) NHKスペシャル|デジタルネイティブ 〜“次代”を担う若者たち〜(仮)

インターネットが一般の家庭に普及するようになって10余年。子どものころから、インターネットを「水」や「空気」のように使いこなしてきた「デジタルネイティブ」とも言うべき若者たちが登場している。「13歳でインターネットを駆使して起業し全米中の注目を集める少年」「ネット上に200カ国の若者が参加する”国際機関”を作り出した若者」「仮想空間で仕事を請け負って月に5000ドルを稼ぐ高校生」・・・。デジタルネイティブは、「自ら情報を発信し共有することで成立するネット・コミュニティ」を自由自在に使い、見ず知らずの人々と瞬時につながって、次々と常識に縛られない「価値」を生み出している。アメリカでは、既存の価値観や従来の組織のあり方に捕らわれない彼らの考え方や行動力が社会をどこに導くのか、詳細な研究も始まっている。
番組では、台頭しはじめたデジタルネイティブの素顔に迫り、世界のデジタルネイティブから寄せられた動画も紹介。世界を変える可能性を秘めた若者たちの”今”を多角的に見つめていく。

番組が言祝ぐように紹介した彼らに、ぼくは驚いた。そして畏怖した。こんなすごい奴らがすぐ後ろの世代に控えているなら、ぼくのようなアナログ人間はアッという間に、いや、もはやすでに抜かされているのだろう、と。ガクブルだったわけである。

けれど、あれから数年がたち、この番組が紹介したようなデジタルネイティブたちがどれだけ出現しただろう、と思う。中にはきっといるだろうが、それは氷山の一角にすぎない。大多数の子どもは、「常識に縛られない『価値』を生み出している」わけじゃない。ただネットを使いはじめる年齢が早かっただけの「おませさん」にすぎなかったんじゃないだろうか?


そして、その弊害は出てきている。奇しくも同じBLOGOSに、数日前にアップされていた興味深い記事が。
低所得層の子供たちはゲームやり過ぎ?(奥山真司) - BLOGOS(ブロゴス) 低所得層の子供たちはゲームやり過ぎ?(奥山真司) - BLOGOS(ブロゴス)

この記事の要点はまず、1999年に比べ子どもたちが「テレビ、コンピューターやそれ以外のガジェットなどに平均して多くの時間を費やしている」ということ。
そして、その事態は「子供のテクノロジーへのアクセスを監視・制限する親たちの責任能力の違いを反映している」ということ。子どもがネットを無制限に使えることを「自由」と呼ぶこともできるだろうが、それはただ単に親に子どものネット利用を管理する能力がないだけかもしれない。そういう考え方だってできる。ものはいいようだ。
それから、これも付け加えておかなければならない。「コンピューターはたしかに教育に使える潜在力を持ってい」るが、「それでもそれが遊びに使われる時間に比べると非常に少ない」、ということ。



ネット環境に早くから浸っているから早熟であるとは限らない。
デジタルネイティブは、ネット環境に子どもの頃から慣れ親しんできた世代であるといえるが、言い方を変えれば、彼らはネット環境に人格形成がままならぬ年代から「さらされてきた世代」とさえ言える。ものはいいようだ。


いい加減ぼくらは、デジタルネイティブのイメージを書き換えるべきときなのかもしれない。