いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

『空手バカ一代』は「経歴詐称」か〜「伝説」が存在し得ない時代に生まれて〜

巨人の星』や『あしたのジョー』『愛と誠』などの古典的なマンガに最近ちょこちょこ手をだしていて、戦後マンガ史における梶原一騎の重要性を改めて思い知らされているのだけれど、彼が原作をつとめた作品に『空手バカ一代』がある。

梶原先生が原作をつとめ、つのだじろう影丸穣也と描き継がれた言わずと知れた極真空手創始者大山倍達の伝記的マンガだ。

山ごもりの際に俗世への未練を立つためにまゆを片方だけそり落としたなどは割とポピュラーなエピソードだが、改めて読んでみるととにかく熱い。いや、もはや熱苦しい。しかし、大山先生がアメリカでプロレスのリングに上がり、「リメンバーパールハーバー!」の大ブーイングのなか、敗戦国日本を背負って戦う姿には、ふだん愛国心というものから縁遠いぼくですら、熱くたぎるものがある。


ところで、講談社文庫で全18巻もあり先はまだまだ長いのだけれど、読んでいる途中であることに気づいた。

この『空手バカ一代』というのは、マス大山という一人の偉大な教祖を主人公とした、一つの教典なのではないか。極真の空手家にとって、ひいては格闘技ファンにとって、この作品はバイブルと名指しされてきた。しかしそれは比喩でもなんでもなく、文字通り本作は「宗教書」の構造をとっているんじゃないか。


そう思わされるのも、この作品は事実に対して独特のスタンスをとっているからだ。全編にわたり「大山倍達(談)」という断り書きが入り、その場面についての大山先生本人による述懐、あるいは解説が挿入される。こうした描写を読むと、いかにも本作は実話をもとにしたフィクションなんだろうなと思わされる。しかし、梶原一騎の弟で今年1月に亡くなった作家の真樹日佐夫は後年「内容の九割以上は梶原の創作だった」と述べている。9割といえば相当はなしを盛っていることになる。目が合った女子は自分に惚れているとか、それぐらいのレベルである。

それでは、このマンガでものすごい筆圧で描かれる猛牛殺しの話や、熊と戦った話、あるいはアメリカでピストルを持ったギャング十数名を倒した話は、全てウソなのだろうか。それはうやむやにされる。「創作」ではあるが「事実ではない」とはけっして言わないのである。この独特のリアリティのバランスは、宗教における教典や孔子の死後弟子によって記されたという論語を彷彿とさせる。


最近、相次ぐ「経歴詐称」が話題になっている。
その主役は、某ゴルフジャーナリストと「中国で一番有名な日本人」こと加藤嘉一氏の二人だ。後者は、先週の文春の記事で「経歴詐称」が告発され(といっても以前からささやかれてはいたが)ブログで詐称の事実を認め早々と謝罪しているが、ゴルフジャーナリストの方はもうなんだかよくわからなくなってきている。


ところでだ。このような事例を考えると、マス大山先生も立派な「経歴詐称」なのでは? といえなくもない。もちろん原作は梶原一騎であるが、大山先生はそのことを黙認したわけだし、事実を暴かれることによって読者を「欺いた」という印象を残すのは、おそらく大山先生の方だろう。当時は時代がおおらかだったし、記録よりも「記憶」の方がまだ優位だった。多くの人が経験あるように、記憶は自分の都合のいい方に勝手に編集されてしまう。

だが、いまや圧倒的に記録の時代だ。上の二人の経歴詐称があっさりとバレてしまったのも、記録技術とそれを瞬時に割り当てる検索技術の飛躍的な発達によるところが大いにある。マス大山先生もこの時代に生まれていたらどうなっていたことやら。。。


しかしどうだろう。今回の経歴詐称組の二人の詐称と大山先生の「詐称」には、根本的にちがうところがある。それは、上の二人の詐称は、詐称をすることで自分に落ちてくる利益だけを考えて行われたものである。それに対してマス大山をめぐる「詐称」はどうか。

空手バカ一代』における「詐称」は、もちろん先生個人の名誉を高め、威光を強めたことに変わりない。その点で個人の利益にはなっている。しかし、その「詐称」によって、志をもった何百、何千というフォロワーを生んだことは紛れもない事実だ。その中には、極真会館の門をたたきのちに館長にまで上り詰める松井章圭や、k−1で活躍することになる黒澤浩樹だっていたのである。

「人を幸せにする嘘」とはちょっとちがうが、後世の人間に道を指し示した「思い出補正」として、『空手バカ一代』という"男の星座"は、いまも夜空に燦然と輝き続けるのである。