いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

匿名っぽい実名/実名っぽい匿名 〜青木淳悟『私のいない高校』批評〜

私のいない高校

私のいない高校

先月に放送した「いいんちょと愉快な鼎談」第四弾であつかった青木淳悟『私のいない高校』について、ここで書き留めておきたい。
ちなみにUSTの模様はこちらでアーカイブになっております↓
http://www.ustream.tv/channel/atsushi-s-broadcasting

物語は、ある女子高の二年生(といっても、一年下からは共学に移行し、女子校制度最後の学年という設定)の1クラスを舞台に、カナダ人留学生がやってきた一九九九年四月から六月下旬までの顛末を描いている。

「私」のいない小説

ぼくはもともと読むのが比較的に早い方で、小説も文体に慣れてきたらどんどんペースが上がっていくタイプなのだけれど、この本については約230ページ読むのにやたら時間がかかった。というのも、文章がなかなか頭に入ってこなかったのだ。
ではなぜ入ってこなかったのかというと、この小説、読めども読めども物語が立ち上がってこないのだ。舞台は学校であり、様々な教師や生徒が出てきて発言し出来事が起こるのだが、それらはいつまでたっても物語という一本の糸を形成することなく、出来事の「羅列」がただただ続く。いうならば「日誌」なのだ。事実、作品は事細かに日付が記される形で進行する。
小説の書き出しはこうだ。

一九九九年七月
【もうすぐ夏休み】 
 千葉県に山がないと指摘されると、その時間に初めてこれを知ったという者がクラス中に続出した。誰からともなく口を開き、生徒たちは素直にそれを驚くようでも、また感心しているようでもあり、全体に気分の高揚している様子が伝わってきた。
 「どこにも山がない」と知り、「何で山が――?」と疑問を抱き、「山ってどんな――?」と興味を持って話していた。さらに多くの反応があり、挙句の果てが土方理恵による「山梨県」との発言であった。
 そうしたなか、まだ来日して日が浅く、「国内の地理に弱い」カナダ人留学生ナタリー・サンバートン十七歳が、周囲のざわつくのを妙に思って頻りに頭を巡らせていた。意見がポンポン出てくるのは議論の活発な証拠ではあるが、いつもの席で一人留学生が取り残されていることが分かり、また教室内に私語が目立ってきていたため、担任の藤村雄幸先生は軌道修正すべく「静かにする」「話さない」と注意し始めた。

書き出しと考えればそう特異にも思えないかもしれない。例えばこの直後に「教室内の騒ぎに興味を持てない私は、ずっと窓の外を……」なんていう段落が始まれば、いっぱしの「小説」が始まりそうな予感がする。なのにそうはならないのである。文章は延々とこのような調子で、教室内、クラス内のほとんど誰の視点にも加担しないまま、情感をこめることない観察レポートのような体裁で進行する。もちろん、一人称でない小説なんていくらでもある。この作品は三人称のスタイルをとっているが、三人称でも登場人物の誰かに寄った語りというのは可能であるし、そのような小説は山ほどある。
しかし本作『私のいない高校』において読者は誰にも感情移入させてもらえない。まさに「私」のいない、「私」という語り手を欠いた「小説(のようなもの)」なのだ。

小説(のようなもの)から逆に浮かび上がる小説という「制度」

「私」がないのと同時に、この作品にはストーリーもない。
たしかに今までにも、カタルシスがなくてモヤモヤした読後感の残る作品はあった。しかしこの小説(のようなもの)はそれどころではない。ストーリー自体ないのである。
またストーリーではなく文体で読ませるタイプの作家も存在する。たとえばUST放送で @a_atsushi くんが例に挙げた中原昌也なんかは、ストーリー自体に大した意味はないし、エッセイでも要約すれば「書きたくない」の一言で終わる話なのに面白かったりする。このように文体的快楽というのは確かに存在する。けれどこの『私のいない小説』という小説(のようなもの)は、文体をも意図的に欠いている。

もしかすると、小説を読んだことのほとんどのない読者にこの作品が読まれたら「ものすごく下手な小説だなー」と勘違いされるんじゃないだろうか。しかし、この小説(のようなもの)は明らかに意図されたもので、いわばこれは「小説が小説として成立することを功名に避けつづける小説」なのだ。

逆に言えば、普段から読み慣れた小説読者は、この小説(のようなもの)が全編をとおしてやりとげた「小説が小説として成立することを功名に避けつづける」身振りを読むことによって、自分がそれまで面白いと知覚してきた小説という文芸ジャンルが、なにも「これは小説だ」と宣言すれば小説になるような自明なものでなく、長い歴史の上で積み上げられてきた一つの「制度」であり「ルール」があるということを、思い知らされることになるだろう。

匿名っぽい実名/実名っぽい匿名

この小説(のようなもの)をとおして、ぼくらが気づかされることはもう一つある。それは、実名だからといって実名性が、匿名だからといって匿名性が担保されるとは限らないということだ。
この作品には全編、様々な個人名の実名が出てくる。先述したこの作品の読みにくさの理由の一つは、このほとんど説明なく用いられる個人名の羅列によるところもある。
そのようにして本作が実践的に示すのは、いくら個人名であろうと、そこに固有の外見や性格、行動様式、趣味、趣向、性癖などの描写が付随しなければ、実名は単なる記号にすぎない、ということだ。
逆に、ぼくらはすでに匿名の「私」であろうと純然たる実在感=固有性をもって立ち現れる小説ジャンルを知っている。それは私小説だ。
ネット上では相変わらず実名/匿名論争がにぎわいを見せている。ぼくも、SNS(主にTwitter)ではハンドルネームしか知らない人とも頻繁にやり取りを交わす。けれど、彼ら彼女らが実名でないから信用できないと考えたことはない。日々彼らのアカウントで発信され続ける情報によって、彼らはぼくの頭の中で人物として「肉付け」され、かっこたる実在感をもって立ち現れている。ぼくにとって彼らは、実名を知っているけれどどんな人か知らない人物(主にフェイスブックでまちがえて申請許可してしまった人とか……)より、何倍も実在感があるのだ。

史上まれに見る不可解な小説

裏表紙の帯を眺めてみると、書評家の豊崎由美氏が「これまで読んだ中で、もっとも不可解な小説」というコメントを寄せている。さすがプロ書評家、この言葉に噓偽りはない。不可解――これほどこの小説(のようなもの)を言い表す言葉はない。だが、その一方で豊崎氏のコメントの直後にある、出版社側がつけたと思われる「”わからない愉しさ”に中毒者が続出」という言葉には首を傾げざるを得ない。


そう、注意すべきなのは、不可解だからといって愉しいわけではないということだ。


ここまで書いてきたとおり、この『私のいない高校』は、「小説が小説として成立することを功名に避けつづける小説」だ。したがって、ぼくらが常日頃から慣れ親しんだ(あえて危うい言い方をすれば)「小説的な面白さ」が潔いほど抜け落ちているのは、ある意味当たり前のことなのかもしれない。

この『私のいない高校』はまぎれもなく実験小説である。ぼくら読者を小説という制度の極北、崖っぷちにまで誘い、その下に広がる深淵を覗き込ませる。その深淵に何を見るかは読者諸兄によるだろうが、少なくともぼくは、しばらく眺めたあとに回れ右してもと来た道を帰ってきてしまった(笑)