いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

憂国者のパラドクス

昨年の夏に盛り上がリを見せたフジテレビ関連の騒動や、今も話題のまっただ中でありつづける放射能について、ネット上で浮かんでは消える流言をみるにつけ、一つの興味深いパラドクスがあることに気づく。
それは、フジテレビと韓国系企業の間に特殊なつながりを疑っている人や、原発事故での致命的な放射能被害が隠蔽されていると疑っている人が、あたかもそれらが事実で「本当であってほしい」と望んでいるかのように振る舞っていることだ。
最初、彼らは対象を疑っているのだなと思いながら眺めていた。しかし、よくよく眺めていたらそうではない。彼らはどうも望んでいるようにしか見えないのだ。

当たり前のことだが、「疑う」ことと「望む」ことは全然ちがう。
「疑う」ことを徹底すれば、それに終わりはない。本来それは精神的にストイックな行動だ。これを厳密にやれば、ネット上で「ソース厨」と揶揄されることになるが、極端でないかぎりやはりそれは正しい情報に対する態度だ。

一方「望む」という感情は得てして誘惑に弱い。その感情は、「噂」や「可能性」といったものをしばしば「事実」へと架橋してしまう傾向にある。フジテレビや放射能被害を疑っている人が、ネット上でとんでもないデマを発信し続けるその営みは、しばしば「疑う」とうよりもこの「望む」という状態に酷似する。


しかしここで留意すべきなのは、フジテレビを疑っていた人々(一般的にネトウヨと呼ばれる)も、放射能被害を疑っているという人々(一般的に放射脳と呼ばれる)も、立派な「憂国者」であるということだ。彼ら彼女らが国の存亡を憂いているということにおいては、自分のことで精一杯のぼくのような人間とは、比べ物にならない。彼らは明日の日本について気が気でないのだろう。

そんな彼らが一連の「日本についてのネガティブな情報」を裏付けもないままに信じ、その拡散に積極的に仮託するというのは、いったいどういった心理的プロセスにおいて、成り立つ行動なのだろうか。

功名心や名誉心からくる勇み足だろうか?しかし、繰り返すが彼らは本当の憂国者であり、その気持ちにおそらく噓偽りはない(とぼくは思いたい)。それに、彼らはすでにネトウヨ放射脳というレッテルを貼られ、ネット上では一部の人(つまりそれは同類の方々、ということになるが)をのぞき、もはやほとんど誰からも信じてもらっていない。他者からの評価されたいという理由では、説明できない。


この現象を説明する上で、ぼくが一番納得のいく仮説のヒントは、北野武の映画『ソナチネ』の中にある。

「あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ」

一見倒錯しているようにみえる北野武のこのセリフは、いま話題にしているネットでの現象を説明するのに、すごく都合いい。
彼ら「憂国者」は国のことが心配で心配でたまらない。国のことが心配すぎて頭がいっぱいなのである。その気持ちが極限まで達するとどうなるか。ずばりこうだ――
あんまり国の存亡を心配しちゃうとな、国に亡んでほしくなっちゃうんだよ。


国のことを心配するその精神状態は「苦痛」である。その結果、ダメになるならいっそ早くダメになってくれ、という転倒した感情が生まれる。
しかし、そのことは表面的には現れない。その感情は、「日本についてのネガティブな情報」を調べもせずに積極的に拡散するという迂回の形をとって表現されるわけだ。

先述したようにこうした彼らの行動は、もはやネットではほとんど相手にされていない。けれど、まだそういう人たちの存在に疎い人がそうした情報を目にすれば、不安な気持ちにさせられることがあるかもしれない。やはりそれは害悪であるのに変わりない。

「憂」という字ににんべんを足すと「優」になる。憂いて心配するのもいいが、一定の距離から優しく見守っていた方が、目が曇らないということなのかもしれない。