いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

内定のない就活生がつらいのは内定がないからではない〜現代にはびこる内定予定説〜

社会学者のマックス・ヴェーバーに『プロテスタンティズムの精神と資本主義の精神』という本がある。
長々しくかつ仰々しいタイトルだが、本書の立てた問いはとりわけシンプルだ。それは、西欧諸国において資本主義はなぜここまで繁栄したのか?という問いだ。
分厚い本で、ぼくもかなり前に読んだので鮮明に覚えているわけではないが、長い議論の末ヴェーバーはこう結論づける。
資本主義の繁栄の背景にはキリスト教の救済予定説がある、と。
資本主義と宗教?一見、関連性がないように思えるが、こういうことだ。
キリスト教、とくにカルヴァン派では救済予定説というのをとっている。救済予定説とは、文字通り、人間が救済されるかされないかは生まれたときすでに神によって決められているという教義だ。予め決まっているなら現世をどのように生きたってかまわないはずだ。しかし、多くの信者は自分が救われていると思いたいがために禁欲的に労働にはげみ、それで得た利潤もムダ使いすることなくさらに事業へ投資していく。そうした営みによって資本主義は雪だるま式の増殖していった。ヴェーバーはこのようにして資本主義の繁栄のメカニズムを解き明かす。
つまり、キリスト教徒は自分が救済されることを証明したいがために、頑張りつづける。しかも、途中で怠けたり諦めたりすれば逆に神に救済されないダメ人間であることを証明してしまうので、死ぬまで頑張り続けなければならない。はた目からすればきわめて不条理な理屈が、ここで構築されている。

なぜ、救済予定説のこの理屈が不条理に見えるのだろうか。
それは、神がここで究極の「後だしじゃんけん」をしているからだ。頑張り、成功できた人は“神によって救済される予定だった”ことになり、頑張ることができない人は“神によって救済されない予定だった”ことになる。それらがすべて、神の思し召しであり、あらかじめ予定されていたというのだ。これを「後だしじゃんけん」と言わずなんという。


ところで最近、この理屈とよく似たものによって駆動している現象が思い浮かんだ。
それは就活だ。
とくに新卒一括採用の現場では、救済予定説ならぬ「内定予定説」がはびこっている。努力しつづけることのできる者だけが救済される(内定がもらえる)。内定がもらえなければ、内定がもらえるまで努力を続けなければならないし、あきらめれば即、社会から落伍者の烙印を押される。だからこそ、就活生は遮二無二努力し続けるほかない。
しかし、ポイントカードのごとく「努力」がいくらか貯まれば内定がもらえる(救済される)と決まっているわけではない。いくら頑張ったって救済されない!という人だって、なかにはいる。

そういう人に対して、就職コンサルタントみたいな横文字職業の人たちが「就活の神さま」になりかわり、「自己分析が足りないんじゃないか?」「企業分析が疎かになっているでしょう」などとその「信仰」の不十分さを指摘する。
だが、彼らの言っていることを全て実践したからといって、内定がもらえる保証はどこにもない。すべて結果論にすぎないのだ。

しかし、ぼくは別にここで彼らを批判したいわけではない。とにもかくにも、内定がもらいたいならば内定をもらえるまで頑張るしかない。論理的に考えれば、彼らはものすごく全うなことを言っているのだから。
真の問題は、彼らのそうした理屈が理屈として通ってしまうような内定予定説という教義の体系の側にこそあるのだ。
それはどういうことか。
率直に言えば、内定のない就活生がつらいのは内定がないからではない。表層的には内定がでないことがつらいが、辛さの真の源泉はそこではない。就職率というのはその時の経済状況に大きく影響を受けるため、内定がでないことがあってもそれは仕方ないことなのだ。
内定のない就活生がつらいのはむしろ、自分がいくら頑張っても内定をもらえないということを誰も教えてくれないこと、「残念ですがあなたは就職できません。諦めてください」と声をかけてもらえないことのほうなのだ。いっそ、あなたは内定もらえませんよ(救済されませんよ)?と肩を叩いてもらえた方が、どんだけ気が楽な事だろう。
内定予定説のドグマを信じているかぎり、この袋小路から抜け出すことはできない。


でも、この袋小路から抜け出す方法が一つだけある。
簡単なことだ。自分から「信仰」をすてればいい。
他に生き方なんて腐るほどあるんだから。救済されない?だから何?と。