いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

これからのは新聞はかぎりなく“エンタメ化”を追求するべきだ

 昨日InterFMを聴いていたら、お笑いコンビのロッチがゲストで出演し、そこで興味深い話をしていた。なんでもロッチのコカドケンタロウは最近、子ども新聞を購読しているんだそうだ。
 
ロッチのコッチ↑
 仕事の幅を増やすために時事問題に強くなろうと、最初は朝日新聞を購読していたが、彼はそこに書かれている内容がさっぱりわからなかった。「◯◯が××した」という記事があっても、そもそも◯◯を知らないからその文面に書いてあることがさっぱりわからないのだ。困惑していたところ、文中の漢字にすべて読みがなが振られ、固有名にいちいち説明がついていてわかりやすい子ども新聞の存在を知り、彼は購読をそっちに切り替えたんだそうだ(文脈からいくと、これは朝日小学生新聞のことなのではないか?)。
 コカド氏はそれを笑い話として話していた。33にもなって子ども新聞を読んでいる光景はたしかに笑えるが、その一方でまったく恥ずべき行動ではない、とぼくは思う。
 なぜなら、子ども新聞だって文章が幼稚なだけで、物事の本質を理解するためには、一般紙と何ら変わりはないからだ。
 そして何よりも重要なのは、物事を「わかりたい」というプリミティブな欲望を充足するため、「わからない」ことを「わからない」と素直に認め、「わかる」ための方法を変えたコカド氏のその手つきは、まったくもって「知的」と評する意外にないのだ。 
 新聞をとってないと人に笑われると、たいして読みもしないのに建前で購読している人なんて、世間にはいくらでもいるだろう。
 ここで本当に恥ずべきなのは、そのような人たちとともに、コカドケンタロウという一人の読者に“「わかる」という経験”を提供できなかった“オトナ版”の朝日新聞の作り手の側だろう。
 ぼくは、コカド氏が日本の知的水準からしてとりわけ劣っているとは思えない。もっといえば、多くの人は知能的にも知識的にも彼と大して変わらないのではないかと、訝しんでいる。
 もしかすると、多くの人は新聞を購読していて、しかも読んでいるにもかかわらず、「わかる」という経験はしていないんじゃないだろうか?


 大手新聞各社は実売数という数字を競っている。経営戦略的に考えればそれは当然のことだ。しかし、マスメディアとして本当に重要なのは、実売数ではなくて何人の読者に「わかる」という経験を提供できたかではないだろうか。
 文章を書いていると、ふと思う時がある。ぼくの書いたことについて、はたして何人の人が「わかる」という経験をしたのだろうか、と。いちおうページビューという「数字」はあるが、それはあくまで訪れた人の数であって「目安」にすぎない。それに対して「わかる」というのは数値化できない。しかし、その数値化できない「わかる」という経験こそが、実は一番重要なことなんじゃないかと、最近強く思う。

 この前、高橋晶一郎氏の「限界」シリーズをとりあげたときに、わかるということはそれ自体が面白いのだということを書いた。
 「わかる」というのは、あくまでも各読者の脳内で起きるごく個人的な現象だ。しかし、そのごく個人的な「わかる」という経験こそが、一番面白かったりする。脳内でもやもやと漂っていた不定形の「わからない」は気持ち悪い。しかしそれが、何かの拍子でバチッ火花を放ち「わかる」ことがある。その瞬間は、実は何にも増して楽しい瞬間ではないだろうか。池上彰氏の一連の番組、著作のバブル的なヒットが、それを証明しているだろう。「わかる」というのは、それ自体がエンターテイメントなのだ。

 全体的に読者数が縮小傾向にある新聞は、いまこそエンタメ化していくべきだ。
 しかしそれは、内容を低俗にすることだとか、過度なコマーシャリズムに陥るべきだ、といいたいわけじゃない。
 一言で言うと、それはわかりやすくすること、そして、できるだけ多くの読者に「わかる」という経験を提供する事に、他ならない。物事が「わかる」というのは、それそのものがエンターテイメントなのだ。
 
 「わかる」という経験を提供できないならば、新聞は、もっといえばマスコミは、この世界にある意味なんて、ない。