いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

パブリックマンはトゥルーマン・ショーの夢を見るか

パブリックマンについて考えてみる。
現在日本にパブリックマンは確認できるだけでふたりいる――ぼくの知人ではないパブリックマンの方ぼくの知人のパブリックマンが一人ずつ。だが、パブリックマンというのはいったい何なのかというの説明は、意外と難しい。それはパブリックというより、その対義語のプライベートの意味がほとんどバズワード化しているところにあると思う。氏名、性別、年齢、住所、連絡先、職業、収入、支出などの個人情報のことを意味するのかもしれないし、単に個人的な事柄を意味するのかもしれない。このようにプライバシーといっても濃淡があるので、パブリックマン宣言にも、宣言者それぞれで意味がことなってくるだろう。

いずれにせよ、パブリックマンとはプライバシーをパブリックにしていくことで、ネット上からなんらかの対価をもらって生きていく人のことだろう(対価も求めずに公開し続けるのはそりゃただの露出狂だ)。
だが、プライバシーをパブリック(公開)にするということ自体、ニコ生やTwitterで毎日のように自ら好き好んでプライバシーを開陳する人が半ば当たり前になってきている現在では、明確に競争優位な価値とはならないだろう。


結局、完全なるパブリックマンになるには、よほどの努力と覚悟とセンスが必要というわけだ。
ここで思い出してもらいたいのは、ジム・キャリー主演の映画『トゥルーマン・ショー』だ。主人公のトゥルーマンは何の変哲もないさえない中年男性。しかし、彼の半生は今まで片時も漏らすことなくテレビ中継されていた番組(『トゥルーマン・ショー』)だったのだ。そのことを知らないのは彼だけ。生まれてこのかた彼が一歩も出ていない町は巨大なドーム型のスタジオ、彼の家族、友人、会社の同僚はすべて俳優だった、という設定だ。


パブリックマンとして名をはせるには、この『トゥルーマン・ショー』にどこまで肉薄するかにかかってくるように思う。つまり、私生活をどれだけ公開できるか。具体的には、自室から24時間365日体制でのust配信などが妥当だろう。ただ、何から何まで放送することは利用規約の9.a.7に反する可能性がある(映画『トゥルーマンショー』もその発想はよかったものの、トゥルーマンの変態チックなセックスライフが公開されてないので物足りない。映画としての「公共性」を保つために仕方なかったのだろう)。オナニーやセックスなどは、「プライバシーボックス」などを設けるなどして、そこで隠れて行えば万事解決だ。

しかしここまで考えていくと、じゃあ野郎が部屋でくつろいでるところなんて視たいか?という根本的な問題にぶち当たる。『トゥルーマン・ショー』の劇中番組『トゥルーマン・ショー』は人気を博していることになっているが、それはあくまでフィクションだ。

結局もって、現実に「トゥルーマン」が現れたとて、我々は彼にどれだけ注目し続けるのだ?という疑問が浮上する。パブリックマンにはおそらく、消極的な「公開」だけではなく、もっと積極的ななんらかの「発信」が必要になってくるんじゃないかと、ぼくは考える。

そして、そろそろ就活戦線で敗色が濃厚になってきた大学生諸君のなかにも、次のパブリックマンの椅子をチラチラ流し目で狙っている人も出てきているころだろう。ここで一つアドバイスするとすれば、ネット上における先行者優位についても念頭に置いておかなければならない。簡単に言えば、早い者勝ちだ。もう一つは、そろそろ「儲かるパブリックマンになる方法!」だとか、「パブリックマンのプロデュース!」など中間搾取者が出てくる頃合いだ。悪徳業者に騙されないよう注意し、願わくば快適なパブリックマンライフを送っていただきたい。