いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「好きこそものの上手なれ」は真実か?

昨日べしゃり暮らし読んでたんですよ。

べしゃり暮らし 13 (ヤングジャンプコミックス)

べしゃり暮らし 13 (ヤングジャンプコミックス)


そしたらカバーにある著者森田まさのりのコメントの最後にこんなことが書いてあった。

僕は絵が苦手なので一刻も早くこのつらい時間が過ぎてくれないかと祈りながら毎回ペンを走らせているのです。

話全体の内容は、マンガを作る工程についてなんだけど、この締めくくり方はかなり衝撃的だ。
ただでさえマンガ家なのに「絵が苦手」ということは不自然なのに、特にこれが森田氏の発言となるとよりいっそう驚く。
というのも森田まさのりといえば、『ろくでなしBLUES』『ルーキーズ』でもわかるように、いまや劇画タッチのマンガの代名詞的な存在だ。
あんな精巧な絵が描けるのに、それが「苦手」で「つらい時間」だったのかと思うと、一読者としてびっくりなわけです*1


ここで記事のタイトルの「好きこそものの上手なれ」は真実か?という疑問に行き着く。


つらいどころか絵を描くのは大好きだけど、森田氏よりもはるかに下手で読みにくいマンガ家はいくらでもいるだろう。
また、毎回マンガへの熱き情熱をたぎらせ原稿を落とさずに描き続けていても、たまにひょこっと現れちょろちょろっと描いてまた休みに入る冨樫義博のマンガにおもしろさで勝てない書き手もいくらでもいるだろう――そういう点で、「才能」とともに執念のような「情熱」も持っていた手塚治虫のすごさが際立ってくるのだけれど。


身も蓋もない話だけれど、結局ここで立ちはだかるのは「才能」という壁なんじゃないだろうか。
ある人がその分野に対して持つ「才能」と「情熱」に相関性はない。
いや、「才能」があるからこそ「情熱」が湧いてくるということもあるかもしれないが、その逆はない。残酷なことに。

そういう点で、「才能」というのはある種の運だ。


ぼくはこの、個々人が持って生れたうえで個々人の手ではどうにも変えがたい「才能」というのは、ほくろみたいなもんなんじゃないかと思っている。
誰しもになんらかの「才能」がある。しかし、その「才能」が世のため人のため自分のために活用できるものかどうかは、誰にも選ぶことができない。

ほくろもそうだ。
ほくろはその人の意思でついたものではない。
気づけばどこかに勝手についている。
大抵のほくろというのは役に立たないが、特に女性の場合アゴについてたりすると色っぽいという性的記号になったり、もう手術でとっちゃったけどかつての千昌夫のように額のちょうどいい真ん中についてチャームポイントになったり。
でもそれはたまたま位置がよかっただけだ。
才能はさらに、それを活かすに適した時代と環境という、外的状況とのマッチングという偶然も必要とする。


だから役に立つほくろ=才能ばかりではない。酷いときは足の裏についていたりする。
おそらく、世の中のほとんどを占める凡人の「才能」は、こうした足の裏のほくろみたいなものなのだ。
ここまで読んであなたは暗い気持ちになったかもしれないが、そんな人のためにちょっと気休めになるような文言を紹介しておこう。
内田樹氏による学校教育についての文章のなかに、「才能」についての興味深い考察があった。

真にイノベーティブな才能は、論理的に言って、その才能の意味や価値を査定する度量衡そのものが「まだない」ものである。
利益誘導教育の蹉跌 (内田樹の研究室)

足の裏についたほくろのような才能の使い道も、ひょっとしたら「まだない」だけなのかもしれない。

*1:ちなみにこれは森田氏が「絵」よりも「プロット」に重きを置いているという意味で、マンガを描くこと全体が「苦手」と書いているわけではないのであしからず。前々から「絵」だけでなく氏のウェルメイドな「プロット」に注目していたぼくとしては、我が意を得たりという感じでした。