最近、ライムスターの宇多丸氏が『映画秘宝』のアートディレクターである高橋ヨシキ氏とやっていた「ネタばれ注意!ダークナイト批評!」というラジオのポッドキャストを聴いたところ、2008年の録音ながら、その内容が今の(つまり震災後の)日本人にとっての教訓めいた話になっていると感じた。(41分ごろ)
ちなみに、映画『ダークナイト』について二人は、故ヒース・レジャー演じるジョーカーに対しては強い共感と支持をしめしながらも、当時日本の批評家筋の間での「絶賛!」「完璧!」といった雰囲気に違和感を表明している。要約すると、映画として「カンペキとは言い難いが、歴史に残るものすごい映画になっていた可能性があったのにもったいない!」といったところだろうか。ぼくも、ふだんは買わない映画のDVDを買ったほど好きな作品だけど、DVDで何度も観かえせば観かえすほど、粗というかおかしなところが目についてきて……という皮肉があり……。
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てなわけで、そのあたりの会話を少し文字起こししてみながら書いてみたい。(あ、多少ネタバレしてるけど、2012年現在でまだ『ダークナイト』観てない人って、そもそも映画自体に興味ないんじゃないかっていう気がする……)
高橋ヨシキ(以下T) 9.11のね、あれがあったあとでね、アメコミの世界はDC(DCコミックス)もマーベル(マーベル・コミック)も、「ヒーローはなぜ無力だったのか」っていうのをね、描いたマンガを出したんですよ
宇多丸(以下U) はいはいはいはい
T あの時何をやってたんだっていう
U ふんふんふんふん
T で、だいたいね、間に合わなかったとかいろいろあって。現場の片づけは手伝ったんだぜとか(笑)
U (笑)
T でもそのとき一番活躍したのは現場の消防士だみたいな話をやってるんですよ。(中略)今回それでね、それ(9.11)を意識した絵柄が二回でてくるわけですよ
U えー、具体的に言うと?
ここで高橋氏は、ジョーカーによって誘拐されたレイチェルの爆殺されるシーンと、病院が爆破されるシーンを挙げている。
T で、そこのあとで、バットマンがこうたたずんでね
U たたずんでたね!
T そう。何のゴミを拾うでもなく
U ははは!片づけるでもなく
T 片づけるでもなくただ立って。なんか煙いなーみたいなっていうのがありましたけど
U あのたたずむ画が、なんかみた感じ…
T でもあれ全然ちがうでしょ。あれ病院空っぽでしょ?人は誰もいないんでしょ?
U そんなにたたずまなくてもいいんだ
T そう、あれってビルを壊す、解体作業でしょむしろ?爆発って言っても
U はいはいはい
T テロじゃない…まぁテロだけど
U テロだけど、ビルの解体自体はわれわれニュースとかでよく見ているやつですよね
T そうそうそう。(中略)
U あそこで人は死んでない。絵面は大仰だけど。なのに9.11オマージュだ…
T とかいうんだよ
U てか、明らかにオマージュでしょ
T オマージュっていうか、それは似た絵面を流してなんか眉間にしわを寄せてみましたってだけでしょ?
U ま、実際そうなんだよね。むしろバットマンがたたずむべきは、恋人が死んだあとじゃないですか。恋人というか、あいつが。えーと、なんだ、あの女(レイチェル)がさ
T そうそう、あれは全然気にしてなくて、朝飯前だみたいな顔して待ってましたからね
U 朝飯前って顔はしてなかったですけど(笑)ちょっとそこは淡白な反応だったよね。佇むべきはむしろそこなのに…そうなんだよ、ビルが壊れただけで佇んでんだよ
実際にDVDで確認してみると、バットマンがたたずんでいるのは病院が破壊されたシーン後ではなくレイチェルの死の後であり、また素顔のブルース・ウェインに戻ってからも彼宛てのレイチェルの手紙を読み悲しみに暮れるという場面があり、そこで処理しているともいえるので、「淡白な反応」というのは記憶ちがいの気がしないでもないけど、それはともかく、瓦礫の中を消防士が忙しく駆け回る中、バットマンがひとりたたずむシーンは事実としてある。
T あれはビルが壊れただけなんですよ。どっちもね。なんでもないの。その、考えてみれば。それっぽく見えるだけでね。それが嫌だなーって
U しかもそれを観て、あれでしょ?「9.11以降の……」って評する、安易に、ある意味自動表記的に評する感じがちょっと、実在するジョーカー(高橋さんのこと)としては気に入らないと…
T そういう風に書くの俺も好きで、よく原稿なんかでやっぱ「9.11以降の……」なんて書くとカッコいいんでよく使いますけど、それはカッコいいから使ってるだけで(笑)意味はないですよ
高橋氏が自分もやっていると半分笑いにはしているけれど、これは至言だ。
「9.11以降の……」、どこで読んだかは覚えてないけど、どこかで読んだことがある。そんな気がするくらい、テロが起きたあと「9.11以降の……」的な言説は、それこそ腐るほど積み上げられてきた。それだけ「9.11」はみんなの関心事であり、そのことについて触れることによって書き手は知的に思われたい(カッコいいと思われたい!)という欲求を満たすことができる側面があったわけだ。
しかしその言説が増殖していくうち、「9.11」そのものを詳述するのはもはやめんどくさいから、書き手は「それっぽいことを言おうとしているとわかってもらえるだろうな」と思いながら「9.11」と書き、一方で読み手も「それっぽいことを言おうとしてるんだろうな」と思いながら「9.11」を読むようになっていった。そうしたなかで、いつしか「9.11以降の……」的な物言いは、一種のバズワードと化している節はないのか。そこには、みなが「9.11」に言及すればするほど、かえって「9.11」の持つ意味が顧みられなくなっていった、空洞化していったという悲しい皮肉がある。
この現象が、特に日本人にとって教訓たりうるのは、もちろん「3.11」についてだろう。
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というのも先日、『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』を観たのだけど、その兆候が少しあったからだ。AKBそれ自体にはそれほど思い入れも関心もないけど、映画としてスゴイという評判を聴いていた。たしかに、例の第三回AKB総選挙と西武ドームコンサートの部分は、精神と肉体を酷使するアイドルという職業の過酷さ(そしてあの「野戦病院」のような舞台裏の惨状を観たあとだと、「アンコール アンコール」と亡霊のように暗闇から求め続けるファンという存在の残酷さが伝わってくる…)。すさまじい映画だという評価は否定できない。
ただ、一か所気になったのは、やはり「3.11」のパートだ。
AKB48というアイドルの一員であることの業――映画はそれだけで一本の完結したドキュメンタリとして成立していたはずなのに、あの震災のパートはどうしても異物感が出ているというか、あれがあることでかえって全体のテーマ性がぼやけてしまっている。特に、クライマックスの実際に被災した研究生が、被災地の瓦礫の中でまさにたたずんでいるシーンなんか、「(この映画のために撮った映像なんだから)これドキュメンタリじゃないじゃん!」と思ってしまった。
もちろん、そんな風に統一性を欠きながらもこの映画は「3.11」について、「まじめ」に考えているふしがあった。
しかしこれから先はどうだろう。5年10年と時がたち、被災地の瓦礫が撤去され復興が進んでいく中で、それでもバズワードと化すことなく「3.11」という生の現象が生の現象たりえているのかというと、それはかなり危うい。
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別に「3.11」という文言について、日本国民全員が統一した意味合いを持つべきだ、といいたいわけではない。「3.11」について、みんながみんな、深く内省すべきだ、とも思わない。「3.11」という言葉には人それぞれ固有の意味、体験、印象があってしかるべきで、またその意味や体験、印象のちがいによって、「3.11」の重要性も変わってくるだろう。
そうではなく、ここで問題にしたいのは文中に「3.11以後の…」だとかなんとかという言葉が出てきただけで、読み手と書き手、伝え手と受け手が、「何か意味を共有している」「何かが伝わっている」と錯覚をすることの方だ。
何かの必要で「3.11」について触れることになったら、出来る限り自分にとっての「3.11」について、言葉を尽くして説明し、その前提において話を進めること。
それが、「3.11」について深く考え続ける気力もなければ何かを変える力もない、ぼくのような大多数の一個人が守るべき最低限の倫理だと思うわけだ。