いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

いじめと「のどかな略奪」から考える日本の近代

<学校アンケート>「同じクラスにしないでほしい人」千葉で

 千葉県茂原市の市立本納中学校で、クラス替え予定の2年生4クラス122人に対し、一緒のクラスにしないでほしい人の実名を書かせるアンケートをしていたことがわかった。保護者や生徒から「実名は書きにくい」「プライバシー侵害」などの批判を受けた同校は16日、生徒らに事情を説明し、アンケート結果を廃棄した。

 同校などによると、アンケートは14〜16日に実施。「必ず秘密にするので正直に」「要望通りに行かない場合があります」などの説明後、(1)どうしても一緒のクラスにしないでほしい人(2)できれば一緒のクラスにしないでほしい人(3)小学校からの問題で、気になっている事や相手の氏名−−を記入させた。

 小川力也校長は「生徒の人間関係を広げるために実施したが、文言に配慮を欠いていた。いじめや学級崩壊など特定の問題に対応するためではない。子供たちを悩ませ、申し訳ない」と釈明した。クラス替えも中止する方向で調整しているという。【吉村建二】

http://news.nicovideo.jp/watch/nw216675?marquee

これを読んだときの第一印象は「変なことしてんなー」ということ。その後ふと、もしこのアンケート結果で、たとえばA子ちゃんが(1)の質問にB江ちゃんと答え、反対にB江ちゃんが(2)の質問にA子ちゃんと答えてたら、先生たちはどうするんだろうなーとか、そういうことを考えてたんだけどそれはどうでもいい。

学校側がこのアンケート結果をどのように使おうとしていたのかはわからない。各生徒の(1)と(2)の要望をできるだけ叶えてあげようとしていたのだろうか。それとも、校長の「生徒の人間関係を広げるために実施した」というコメントから推測すると、むしろその逆が行なわれようとしていたのかもしれない(いや、そちらだったらシャレにならない鬼畜設定なクラス替えだが…)。

どちらにせよ、この「アンケート制クラス替え」が不自然で不健全なのにはまちがいない。なぜなら、いずれは生徒も社会に出なければならない。社会に出たら、仕事やなにやらで気の合うやつとばかりつるんでいられない。もしかすると、気の合わない、むしろ積極的に嫌い!ってやつとも協働しなければならない。そういうことを考えたら、そんな人工培養された人間関係じゃ訓練する経験を失われかねない。

ところで、生徒らによる自浄作用に期待するより(今回のアンケが「いじめや学級崩壊など特定の問題に対応するため」でないにしても)、先生の側であらかじめ環境をイジっておこうという発想は、いかにも日本的なのかもしれないなぁと思うところがあった。

少し前にこういう本を読んだ。

いじめとは何か―教室の問題、社会の問題 (中公新書)

いじめとは何か―教室の問題、社会の問題 (中公新書)

この本によると、いじめは「加害者」(いわゆるいじめる子)と「被害者」(いわゆるいじめられる子)だけでなく、「仲裁者」と「傍観者」の二役をくわえた4層構造を成している。そして「傍観者」にはいじめの促進作用、「仲介者」にはいじめの抑止作用があるという。いじめはどこにでも起きうる。しかし傍観者が多く、仲裁者が現れなければ、いじめは一過性ではなく進行性になり長期化する、というのだ。

ふむ、なるほど。

それでここからが興味深いのだけれど、著者が調べた日本、イギリス、オランダの三国の学校で「傍観者」と「仲裁者」の出現比率が、学年の推移に連れてどのように変化するのかを比較した結果がある。その調査によると、イギリスとオランダでは「仲裁者」の比率は少なくとも中学一年ころには下げどまり、「傍観者」は逆に中一を天井にして減少傾向に転じる。それに対して日本では、仲裁者の比率は加工し続け、傍観者の比率は上昇し続ける。

この結果を見れば、著者が言うように「日本の子どもたちは、あたかも傍観者として育っていくことが成長であるかのような動きを示している」といえるわけだ。残念ながら、僕の印象では「そうなのかもしれない」という印象をぬぐえない。虎の尾は踏むな。見てみぬふりをせよ。これが日本での「成熟」の代表的イメージ。

ところで最近、震災から一年ということでいろいろと当時の動画を漁っていたら、当時話題になった動画に出くわした。


この当時、この動画が転載されたまとめサイトに僕はこういうブコメを残した。

これはひどいwのどかな略奪て、そりゃこのおっさんたちが抵抗してないからだろ。なにが「日本は文明国だからちがう」だよ。

被災地で起きた通称「のどかな略奪」を映したこの動画は、二重にショッキングだった。
一つは、当時海外から「日本では震災が起きても途上国のように略奪が起きない!すばらしい!」との評価が上がり、それにつられて日本国内でも不思議な「俺たち賛美」が巻き起こっていた状況で、やはり日本でも略奪は起きていたということを白日の下にさらした映像であったということ。そしてもう一つは、その略奪がきわめて「日本的」にハイブリットされていた、ということだ。
ことわっておくと、僕はこうした非常時に起きる略奪は仕方ないところがあると思うし、それをここで一年経って糾弾したいわけじゃない。非常時には日本でも略奪がおこり、なおかつそれがいかにも日本的な方法で行われた、ということに注目したいわけだ。

いじめの傍観者と、この「のどかな略奪」には、同根の問題が隠れている。これは評論家の故中島梓がいみじくも「コミュニケーションという名のディスコミュニケーション」と喝破した、日本特有のコミュニケーションの宿痾だ。我々はコミュニケーションしているようでいて、実は事態の行方をその場の「空気」や「ノリ」に任せ、ひたすら「傍観」している。傍観していいような「空気」だから傍観し、みんな困ってるし略奪してもしかたない「空気」だから略奪し、略厚される側はその「空気」に服従せざるを得ない。「みなまで言うな」や「あうんの呼吸」が曲解された最悪のパターンだ。

話を戻すと、この本では先の調査の欧米諸国での結果と日本での結果の違いを、「いじめを、いじめる子といじめられる子との『個人と個人との関係の問題』と認識するか、『集団全員の問題』として捉えることができるか」の違いだととらえ、欧米の学校で行われているシティズンシップ教育がとりあげられる。

シティズンシップ教育とは、いわば公共性教育というやつで、自分が社会のメンバーだという自覚と、社会で起きた問題へ自分の問題としてコミットするという自覚を育成する教育、といったところだろうか。学校は、人間が一番最初に出会うプリミティブな「社会」だ。そこで起きた問題にコミットし解決する自覚と経験は、社会の規模が大きくなったときにもきっと役立つはず。読んでいて、「なるほどこれが『市民社会』というときの『市民』の育成なんだなー」と思った。

「和の精神」が日本の心というが、これはシティズンシップとはまるでちがう。今のところそれは、弱者の「泣き寝入り」によって達成されている「和」だ。日本はポストモダンどころか、近代すらやりとげてないという議論が、もう何十年も間から続けられているけれど、こうしていじめ問題からとらえ直すと、やはり日本は近代化してないんだろうなーということを改めて思った。西洋型の「近代」が正しいか正しくないかは別として、ね。