いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

サイバースペースで「断筆する」ことは可能か?

読んでいる本の中に「筆を折る」という表現が出てきて、懐かしい表現だと思った。
筆を折る、もしくは断筆という言葉がある。
厳密には同じではないけれど、ほとんど同じ用法で使われている。

有名なものでは、作家の筒井康隆の例がある。

1993年(平成5年)、角川書店発行の高校国語の教科書に収録されることになった『無人警察』内の癲癇の記述が差別的であるとして、日本てんかん協会から抗議を受け、数度交渉を行ったのちに決裂。このとき、筒井の自宅には嫌がらせの電話や手紙が殺到したという[11]。さらに角川書店が無断で『無人警察』を削除したことに怒り、『噂の眞相』に連載していたマスコミ日記「笑犬樓よりの眺望」上で断筆を宣言。


筒井康隆 - Wikipedia

筆を折る、断筆。どちらにせよ、書くことをやめることが当人にとって思想的、政治的に大きな決断の表明であったことがわかる。事実筒井の断筆には、業界内で賛否両論を巻き起こったとウィキペディアの叙述は続く。


今「であった」と過去形で書いたが、現代ではこの「筆を折る」ということが可能なのか?と思うのである。





ケータイメール、ブログ、ツイッターなど、今では文章を書くことがかつてないほどに一般化してしまった。電話に出ることなんかより、文字を媒介にしたコミュニケーションの方がはるかに多い。こうした生活に慣れてくると、断筆がいかに困難なのかがわかる。もはや文章を書かないでいる方がむずかしい。


ケータイメールは別だという話もある。なるほど、断筆を決めたかつての作家だってその後他人に言づけるために置手紙くらいは筆をとっただろう。断筆は、通常そういう意味では使われない。おそらくそれは、作家として表現することをやめる、という意味での断筆なのだ。


では、ブログやツイッターはどうだろう。

ブログの場合、明確な断筆という宣言がないまま長く放置されることもあるが、ただ放置しているかぎりは、「また書くかもしれない」という可能性を保留されている。そのため、それは「断筆」とは呼ばれないし断筆に匹敵するようなインパクトはもちえない。
ツイッターではさらに「断筆」という言葉が似つかわしくなくなってくる。ツイッターの使い方も人それぞれだが、多くの人は表現の発表というよりも、「起きた」「食べた」「寝た」といった日常的、生理的な投稿を目的としているため、それを「断筆」と銘打ってまでして止めるということは、あまりピンとこない。


このように考えると、どうもソーシャルメディア化が進めば進むほど、ネット空間で人は空気のように文字を紡ぎだすため、書く/書かないという差異はあまり意味がなさなくなってくる。ROMっていることと何かをウェブ上に書き込んでいることとのちがいは、徐々になくなっているわけだ。ここに、断筆の不可能性がある。





これまでなぜ「断筆」が大事になりえていたかというと、ネット普及以前の社会では公に表現を発表する媒体にはかぎりがあり、表現ができるということは一つの特権だったからだ。そうした特権を与えられた作家は、文芸誌や批評誌、本などのメディアを通し、表現を公開し続けなければ存在証明ができなかった。断筆をして文章を発表しなくなれば最後、その人は社会的に消失する。そしてそれを織り込み済みだからこそ、「断筆」に強い意味が生じてくる。


そうなると、現代のネット社会においては「断筆」とは、サイバースペース上に「いない」ということに相当するのではないか。ホームページやブログの閉鎖、アカウントの削除は、それにあたるだろう。オンラインから完全に撤退することが、「断筆」にあたるわけだ。


しかし、ブログの閉鎖やアカウントの削除といった「断筆」に対しては、かつて筒井の断筆に向けられたものと同様の批判が考えられる。断筆という名のそれは、表現者としての一つの敗北、それももっとも恥ずべき「不戦敗」ではないか、という批判だ。
それに筒井ほどの著名な作家ならまだしも、一般市民が断筆に踏み切ったところで、それ自体が何か事態を変える大きなきっかけになるとは思えない。ネット上では「いること」や「書くこと」「参加すること」の方が、「断筆」より圧倒的に力を有す。


そしてなにより、筆を折るより、そこで思いとどまり表現し続けることの、そして表現したものが他の人に目に触れなんらかの反応を返してもらうことの無上の喜びを、多くの人が知ってしまった今や、「断筆」は死語として葬送されるべき言葉なのかもしれない。



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