いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

採らないなら先に言ってくれ 〜「採用する自由」と「就活する自由」について〜

元旦の「朝まで生テレビ」で就活の話が議題に上がったので、先月twitter上で見た以下のようなセンセーショナルな内容のつぶやきを思い出した。


友達がリクナビに一つは本名、もう一つは仮名で2つ登録したらしい。仮名のほうは東京大学で登録。すると同じ企業でも自分のページには「セミナーは満席」とでるのに東大で登録したほうには「空席あります」とでたという。むなしいけどこれが現実か。


rienomainichicvさんという人のつぶやき。この話は、学歴不問とはいってもやっぱり学歴によってある程度は区分けされている就職活動の「現実」と、自分の見ているものだけが事実ではないというウェブ社会の「現実」の、二つを見せてくれる。






就職活動について、これと同根の問題が巣くっている話を聞いた事がある。
これはある女子大生に教えてもらった話だ。その子の友達で、とある企業の高次の面接まで進んでいた女の子が、面接官から面接中に「ごめんねー、今年は女の子を採らないんだよー」と直に言われたという。言われたとき本人は何が起こったのか、何を言われているのかが咄嗟には理解できなかったそうだが、どうもその会社では以前採った女子社員がすぐに辞めてしまったことにワンマンの社長が腹をたて、独断で「今年は女子社員は採らない」という「見えない採用条件」を決めてしまったのだ。彼女は次の面接まで進んだが結局不採用になった。


就活にはいろいろと「都市伝説」があるため、このケースも本当なのかどうかは議論の余地があるが、「このようなこともあるだろう」という可能性の話として続けたい。


就活生にその「見えない採用条件」をバラしてしまった面接官もおいおいという話であるが、一番害悪なのは、すでに女子社員を採らないと決めているにもかかわらず、あたかも男女平等にどちらも採用する準備があるように募集をかけた企業だろう。高次まで進んでいたということは、その子は他の企業の採用活動へ参加できていた多くの貴重な時間を、ほとんど無駄にしてしまった、ということになる。





そのほかにも例えば、女性にとっては容姿が端麗の方がよりグレードの高い会社から、より多くの会社からの内定をもらっているということは、もう明白だ。

このように学歴、容姿、性差といった複数の要因が絡み合い「見えない採用条件」を形成している。採用の本試験に入る前から、端から採用される可能性のないという人だって、きっといるはずである。にもかかわらず多くの企業は、あたかも学歴も容姿も性差もまったくフラットに、「人物重視」での採用活動を謳っているのだ。そこが、もっとも害悪なのだ。


どうしてこうした理不尽なことがまかり通るのかというと、つきつめればそれは、採用活動は企業の自由意志によって行われていることだからだ。


それは婚活パーティーに近い。選ぶ側は自由意志によって相手を選ぶ事ができる。そのとき選ばれる側は味わうのは、自分が選ばれる際に用いられたはずの相手の判断の基準が、こちらからは徹底的にブラックボックス化しているということだ。どのような基準のもと、どうしてフラれたのかはわからない。たとえそれがどれほど理不尽で不当であろうと、受け入れるしか術はないのだ。極端な話をすれば、企業はなんらかの事情によって採用自体を取り止めにすることだってできる。それは徹頭徹尾、採用活動が企業の自由だからだ。


企業の側にそのような自由があるゆえに、企業が学歴によって、容姿によって、性差によって就活生をある程度スクリーニングする採用方針を取ることを、僕は否定はしない。自由競争の社会で、国家が各企業の採用活動になんらかの介入するというのは、社会主義国家の計画経済みたいなものだ。それはどう考えても難しい。だからここで言いたいのはそういうことではなく、スクリーニングしているのであれば、最初からスクリーニングしていますと明示するべきではないか?ということだ。






こうした採用条件の下限を企業が明示しないのは、企業イメージに関わってくるのではないかと思っている。


例えば先に紹介した「男しかとらない」という「見えない採用条件」について言えば、通称「男女雇用機会均等法」に引っかかるのではないかと思うのだが、どうも現行法では採用に関しての事項はまだ「努力規定」にしかなっておらず、条件として明示することも可能といえば可能なのだ。
しかしどうだろう。「男性に限る」という条件を明記した時、その企業はその閉鎖性と時代錯誤なその主張よってイメージを落とす可能性が高い。そうなると結果的に、実際には存在するはずの採用条件であろうと、あえて記さないほうがまし、との推論が成り立つことは想像に難くない。
特に、BtoCの企業は就活生の側にもその会社や製品のファンがいるかもしれない。その企業に就職しようとやってきているのだから、その可能性は高い。内田樹が以前出版社の採用担当者から、「もう落とすことが決まっている就活生には、いかに気分よく帰ってもらうかを考えるようにしている」といった趣旨の話を聞いたと書いていた。就活生/消費者である以上、あからさまな厳しい条件があることをさらすのは、企業イメージを考えるとなかなか難しいことなのかもしれない。


だが、自社製品を愛しくれている就活生に採用される可能性がゼロを知らせずに無駄な努力に打ち込ませてしまうくらいなら、少しくらいイメージを落とそうとも、恨まれようとも、採用条件を真摯に開示するべきであるとは、考えられないだろうか。





しかし、ここで僕のキーボードを打つ手は止まってしまう。
先に書いたとおり、採用活動が企業の自由な活動である以上、「採用者をある一定以上の条件に限定する自由」は認められるべきだ。しかし、「採用者をある一定以上の条件に限定する自由」が認められるならば、同時に「採用者をある一定以上の条件に限定するが、建前上は“そんな条件はない”というようにふるまう自由」も、そして、「採用者をある一定以上の条件に限定するが、建前上は“そんな条件はない”というようにふるまいながら、よい人材が見つかれば条件外の人材も採用するというきわめて曖昧なふるまいをする自由」も、当然認められるべきなのである(ややこしいな・・・)。





やはりここでも、企業の採用活動が、れっきとした自由な行為であるという問題に突き当たる。
では問いを逆向きにしてみよう。なぜにわれわれは、今の就職活動の制度に「理不尽なもの」を感じてしまっているのだろうか。


それはどこか、企業(選ぶ側)がどれだけ採用活動で自由にふるまっても、就活生(選ばれる側)が強制的に、義務感によって就職活動に向かわされている、という漠然とした印象からきているのではないだろうか。


だがあらためて言うまでもなく、選ぶ側が選ぶ自由をもつ一方で、就職活動をする側も参加するかどうかの自由を保有する。僕らが学部生の3年生後期あたりから、ある種の「必修授業」を取るかのような義務感にさいなまれ、しかし周囲が始めるというのでしぶしぶ参入していく就職活動は、あくまで取りうる選択肢の中のひとつなのだ。この虚構の義務感に形を与えているもののひとつは、正規社員にならなければ生きていけない、という不況下の現在特有の不安感だろう。だが、あくまでそれが自由意志によって行っているということであるということは、再度確認してもいいことなのではないだろうか。





ならば、就活をせず、就職もすることなく遊んで暮らせばいいのか。あるいは起業すればいいのか。
もちろん、ここにはある種の「詭弁」が隠されていることは言うまでもない。だれもが起業して成功できるわけではないし、誰もが働かずに生きていけるわけではない。大多数の人は、どちらにせよ就職活動という自由な選択を、かぎりなく強制される形で選び取っているはずなのだ。


一方採用する企業の側は、あくまで自由に採用活動を展開して、自由に採用する人間を決めていく。繰り返しになるがそれは、利潤を追求することが存在理由の企業にとっては当然のことだ。


ただ、ここまで書いてきたことをちょっとでも真摯に受けとめ、改善をしようと努力してくれないような企業は、安易に「社会貢献」なんて謳っちゃいけないという気も、同時にするのである。