いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「童貞コンプレックス」が薄れ、「童貞文化」も廃れ始めているのかもしれない

最近僕の中で殊に強まっているのが、「童貞コンプレックス」というものがこのままなくなっていくんじゃないか、という実感だ。


説明不要であると思うが、童貞コンプレックスというのは、女性と性交渉をしたことのない童貞が童貞であるということに対して抱く羞恥心、劣等感、恐怖心の別名だ。
僕自身、身の毛もよだつほどの童貞コンプレックスをずっと抱き続けてきた。それが「青春」の別名であったといっても過言ではない。他の人はとっくの昔に「卒業」しているんじゃないかという羞恥心と、恋人のいる友達が増えるたびにたぎる劣等感、そしてこのまま一生自分は独り身なのではないかという明日(あす)の見えないことへの恐怖心だ。とはいっても、北方メソッド*1で解決できるほど豪放磊落な性格でもなく、「初めては好きな人」というオトメチックな夢は捨てきれないまま年齢だけをかさんでいき、童貞コンプレックスはさらに深刻化していくのだ。





ところがだ。僕の接する範囲の後続世代からは、どうもこの「童貞コンプレックス」にり患した臭いがしてこない。ガマンして表に出していないというようにも思えない。わかりやすくいえば、女子にとっての「処女」に近い。とりたててそうであることを自慢したいわけでもないが、別にそれを恥じているわけでもない。女子にとってのこの「なりゆきでこれまでそういった機会がなかっただけですけどなにか?」という感覚に、若い世代のそれはきわめて近くなってきている。コンプレックスが端っからないのだ。


2ちゃんねるのその手の話題の板からは、今でもマッチョな「童貞コンプレックス」がモニタからにじみ出ているようにさえ思えてしまうが、2ちゃん利用者のボリュームゾーンが30代から40代といわれると、それも世代的な現象に還元できるのではないかという気がしてくる。





もっとも、童貞コンプレックスは薄まっても、性的なニュアンスが若干薄まった「孤独」への感性はまだまだ敏感な気がする。週末だったこともありいつも以上の破壊力を発揮した今年の「クリスマス」についての悲喜こもごもを見るにつけ、通称「リア充」と呼ばれる人間関係豊かな人間たちが自分の知らないところで恋人と性なる夜を迎えていることへのルサンチマンは、今も変わらずあるようだ。しかしそのどす黒い感情は、どうもセックスという直接的な行為へというより、「恋人と二人で過ごすロマンチックな夜」という漠然としたイメージに対してなのだ。


ただある後輩に聞いたら、「(童貞コンプレックスは)地方にはまだまだありますよ」とのこと。自分が実家に帰っても高校までの関係をぶっちしていたので気づかなかった。なるほど、文化が中心から周辺へ拡散していくものであるのだと考えるならば、今都心部で起きている現象が地方へ向かうのは、もう少し時間を要するのかもしれない。





結論をいえば、これはいい傾向だ。
「コンプレックス」が消えるということは、この世から「生きにくさ」がひとつ消えるということに近い。そのことを言祝がない理由を探す方が困難だ。


ただ、もしこの「童貞コンプレックスを感じづらくなっている傾向」によって不利益を感じている人がいたとすれば、それは「童貞文化」を担っている人たちだろう。
「童貞コンプレックス」は、「(自他ともに)童貞を面白がる文化」と背中合わせの関係にある。みうらじゅん伊集院光など、この文化の先達は幾人もいるが、彼らの文化は童貞を後ろめたく思う感覚がなければ、心の底からは面白がれないし、共感できはしない。


その文化の担い手の若手が育っていないということも、その衰退を物語っている。今は漫才コンビハライチの澤部が孤軍奮闘している印象があるが、もしかしたら、彼は自分の同世代から一番共感を得にくい時代に生まれてしまったのかもしれない。

*1:「ソープ行け」