いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

表現したい人と表現を見てくれる人のこの不均衡、あるいはtwitterのちょっと後ろ向きな活用法


表現することの敷居はどんどん低くなっている。
2000年代、ブロードバンド化によって大量の情報が個人で送れるようになり、またその手段も形式化、簡素化され、表現することとそれを大多数の人のもとに届けることは、もはやなんら難しいことではなくなってきている。梅田望夫がその著書で述べた「総表現社会」というのは、ほぼ実現したといっていい。かつて、マスメディアに「独占」されていた表現は解放され、もはや「だれでも表現ができる」という社会が到来したのだ。


にもかかわらず、この状態は同時に一種の「痛々しさ」のようなものを我々が抱いているとしたら、それはなぜだろう。





それは、「表現を受容する人」より「表現する人」の方が、実は総量を上回っていた、という事実からくる感覚ではないかと、最近思う。
そのことは文芸誌にまつわるあるジョークに象徴されている。出版不況のなか、苦境に立つある老舗の文芸誌の主催する有名な文芸賞の応募作の方が、当の文芸誌の販売部数より多かったというのだ。そのジョークのオチはこうだ、「文芸誌に文芸賞の応募券をつけたらどうか?」。


これまで「表現できる人」は少数派で、大多数は怠惰に表現をむさぼるしか能のない「他人の表現を受容する人」だと思われていた。しかしそれは、テレビや雑誌、書籍といったマスメディアに、表現が独占されていた状況下でのことにすぎない。


事態はたぶん、まったく逆だったのだ。


(自分を)「表現したい人」こそが大多数で、これまではやむを得なく「他人の表現を受容する人」に甘んじていたのだ。
そして「表現したい人」が「簡単に表現できる環境」に置かれたとき、「表現する人」になることは想像に難くない。


これは、ある意味では当たり前のことかもしれない。なぜなら、「優れた作り手」は評価されても、「優れた読み手」は評価されない。いつまでたっても、名もなき他者でしかありえない。ときおり「優れた読み手」と評される著名人がいるが、皮肉なことに彼は「優れた作り手」の側に移ったからこそ、彼の一部の「優れた読み手」の部分が紹介されているにすぎず、純然たる「優れた読み手」とは言えない。



だがここで注意すべきなのは、「表現がしたい」ということと「表現したいこと」があるのかどうかというのは、実は関係ないということ。
かつて文化人類学者のマルセル・モースが人間の交易について加えた優れた洞察、交換したいものがあるから交換するのではなく交換したいがために無価値なものまで交換し続けている、と同じようなことが表現についてもいえる。


人は表現したいものをあるから他人に見てもらいたいのではなく、他人に(自分を)見てもらいたいがために表現をしているのだ。表現とは考えようによっては、自分の分身であり、自我のある人間がそれを他人から評価されるときそれは、愛撫を受けているような無上の快感を得ることができる。ここには表現にまつわる、いや、人間にまつわる一つの倒錯がある。





僕がそのことにうすうす気づき始めたのは、ニコニコ動画からの派生したニコ生を初めて見たときからだ。


ニコ動といえば従来、「職人」と呼ばれるほどの技術を駆使してMADなどの動画をアップする、いわば「オタク」気質の人の集まりだという印象があった。しかし、ニコ生はそういたイメージとはまるで違う、渋谷あたりをぶらぶらしていてもおかしくない「ふつーの兄ちゃん」や「ふつーの姉ちゃん」も生主として放送をしていたのだ。


そんな彼らがどういった放送をしているのか。彼らのなかには放送枠の30分間、ネタもなくカメラの前にずっと座ってレスがつくのを待ち、レスが来ればそれに答える、ただそれだけを繰り返すという人も少なくない。考えようによってはものすごく「シュール」な映像ではあるが、彼らは何か言いたいから放送するのではなく、とりあえず何がしかのレスをもらうために放送しているのだ。


ニコ生、そしてUSTでは、たまに放送事故が起こる。ニコ生やUSTでこれまで起こった放送事故については個別にググってもらいたいが、それらは放送することに不慣れな素人がやっているから起こってしまった「事故」というよりも、「表現したいもの」がないという状況と、抑えがたき「表現したい」(自分を見てもらいたい)という欲求のはざまでどうしようもなくなった彼らのとったやむを得ない「暴走」であったと考えたくなる。



このように総表現社会という状況は、「表現をする人」(作り手)の方が「表現を受容する人」(受け手)より多いということを、露呈してしまったのではないか。
僕にはそう思えてならない。





そういう意味でtwitterというのは、「表現をする人」(視てほしい人)と「表現を受容する人」(視てあげる人)のこのぬぐい難い不均衡にとっての、いくらかの緩衝剤としての役割をしているツールなのではないかと、最近思うようになった。


twitterでは、アルファツイッタラーと呼ばれる何千、何百人ものフォロワー(視る人)を率いている人がいる。その一方で、その人本人も同じくらいか、それ以上のフォローをしているという場合がある。

twitterを少しばかりかじっている身ならば、4ケタや5ケタの数の人のつぶやきが流れるTLは、文字が追えないほどのすさまじい勢いで流れているだろうということは、想像に難くない。その人はフォローしている人のつぶやきを、すべて見ているとは考えにくい。リストなどを造り、個別に見ているはずなのだ(もしくはまったく見ていないか)。


そうなると必然的に、フォロー(見ていますよと合図を送っている)けれど見ていないという人の層が生まれることになる。そのことがいいか悪いかというと、僕はそれがいいことだと思っている。


ここまで書いてきたとおり、総表現社会の到来によって露呈したのは、「表現したい人」とそれを見てくれる「表現を受容する人」の著しい不均衡、いわば、「表現したい人」がインフレーションを起こしているという事態だ。


しかしtwitterではこのように、実数ではおそらく不足しているはずの「表現を受容してくれる人」を数値として「水増し」してくれているとも考えことができるのだ。





いやいや、僕/わたしがもらいたいのは、そういった「水増し」ではなく、本当に僕/わたしのことをまっすぐに見てくれて、いいところはいいと褒め、悪いところは悪いと諌めてくれる実体があると確信できる視線なのだと、言う向きもあるだろう。


だったら、すぐにPCの電源を切り、モニタから離れるがいい。
ネット上で手にすることのできる「承認」など所詮は数値に過ぎず、実体のあるように思えていた承認など、そこでははなっからヴァーチャルなものに過ぎなかったのだから。


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