いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

なぜ小説家の“彼”がそれに加担するのか?


先月の都議会に修正された『東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案』、通称非実在青少年規制の法案が再び提出されたとあって、その界隈が再び湧き上がっている。
僕がこの件にまつわることで何よりも解せないのは、やはり、“彼”が小説家であるということだ。おそらく、巷で彼の肩書を聞いたら真っ先に上がるのは「都知事」であるが、二番目に来るのは「小説家」であることはまちがいない。なぜその彼がこの件にかかわっているどころか、音頭を取ってさえいるのか。
このことは、もうすでに何千何万もの人が思っているし指摘していることだが、何度繰り返しておいてもいいことだと思う。


小説家もマンガ家も、使う道具は同じだ。
紙とペン。
今では小説家はキーボードを、マンガ家はペンタブを使っているのかもしれない。その他の道具の進歩も著しいが、それらはことを便利にしているだけで、基本的には「紙とペン」から一歩も変わっていない。そして、小説家とマンガ家がしていることの本質を取り出すとそれは、「紙にペンで線を引く」ことだけなのだ。
だがそれが読者のもとに届くとき、“「紙にペンで線を引く」以上の何か”を読者は受け取るのだ。
だから小説もマンガも、「表現」として単体で存在しているとは言えない。
記号を記号と読み取り、そこに“「紙にペンで線を引く」以上の何か”を見出す読者がいなければ存在しえない、それは作者と読者の間で起こる「現象」なのだ。


ここで確認しておきたいのは、小説の文字もマンガの絵柄も「記号」であるということ。
くれぐれも注意しておかなければならないのは、「象徴」ではない。
記号は、「〜〜〜という記号は×××のことを表しています」という、その社会の成員の間だけでとりあえず合意がなされた恣意的なルールにすぎない。
小説もマンガも、そんな記号の集積でできている。


ここでいいたいのは、小説もマンガも記号だからくだらない、ということではない。
まったく逆だ。
ここでいいたいのは、記号にもかかわらず、それらにインスピレーションを受けた我々読者は、そこに“「紙に線を引く」以上の何か”を覚知できるということ。単なる記号にもかかわらず、そこからフィクションの世界をたちあげ、その世界の中での営みに喜び、涙し、怒りを覚え、恐怖を抱き、恋をして、欲情することができる。これは、地球上で人類にしか許されていない知的な営為といっていい。


問題は、そんな表現活動の恩恵を最も受けている一人といっていい小説家の“彼”が、なぜ先頭に立ってそれを封じ込めることに加担しているのか。規制の是非とはまた別に、そのことが僕は不思議でならない。


表現の使い方に、そしてその危うさについて熟知している“からこそ”、規制する側に積極的に参与するのだろうか。
だとしても、小説家である彼が表現を法規制という表現の外部的要因を使って押さえつけることが、小説家としてフェアなあり方なのだろうか。小説家であるならば、小説をもってして「使い方を間違えば表現はどんなに恐ろしいものか」を伝えることが、はたして彼の選択肢にはなかったのか。



人それぞれ主義主張はあるだろうし、なによりも小説家だって誰だって被選挙権が認められている。
それにここ最近の彼の発言を伝え聞いていると、彼の一連の政治的主張は、なんだか一表現者の立場からというより、彼固有の凝り固まった価値観に多分に由来しているように思えてならない。


だがそれでも、小説家がそれをやっちゃまずいだろうというある一線を、彼は超えてしまったのではないかと僕は思っている。「青少年の健全な成長を阻害するおそれがある」かどうかは、彼のとった行動とは別問題だ。