いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

残っているだけで、ある程度それはすごい。


そろそろ忘年会シーズンということで飲み会も増えてきているところだが、最近後輩を交えての飲み会でややショッキングなことを知った。学部の2年生が主体の飲み会だったのだけれど、彼らが「横プロ」を知らなかったのだ。


ちょっとまて「横プロ」って何だって?
そら、ここを読んでる人だって知らないだろう。
横プロは、僕が所属した課程のひとつ下の(つまりその2年生たちにとっては4つ先輩にあたる)後輩たちが主体となって作った学生プロレス団体、横国プロレス、通称「横プロ」だ。
プロレス団体といってもプロレスや格闘技の観戦に頻繁に行くようなコアなファンの集いではなく、どちらかというとサブカルに明るい人間が集まって作ったパフォーマンス集団に近かったかもしれない。
おそらく彼ら最大の功績はこれだろう。



学祭でも興行を開催していた。体操用マットを3、4枚を敷いただけの「リング」であったものの、それでもその「リング」の周りには多くの観客を集めていたのは事実だ。学内での知名度はそこそこあったはずだ。


もともと彼らが作り、下に継承するという目的でやっていなかったのか、立ち上げたメンバーが3月に卒業するとともに横プロはおととし解散した。今の2年生はその翌月に入学してきたわけで、ちょうど横プロが消滅した直後に入ってきたのだから、時系列的には彼らが知っていないという事態が起きてもまったくおかしくないし、特段知っている必要があるとも僕は思わない。


僕はこの課程の歴史に無知だと後輩たちをなじるつもりでも、語りべを残さなかった元横プロ勢を批判したいわけでもない。というか僕は、横プロにはまったく関与していない部外者だ。
だがそれでも、僕は単純にこの事実に驚く。彼らにとって、彼らの「大学」には初めから横プロは存在しない。そして、僕が注釈を入れない限り、おそらくこれから先も彼らは知らなかったはずなのだ。
横プロは歴史上「消滅」してしまったのだ。このあっけなさ、ある種の残酷さは、どこからくるのだろう。



こんなことも最近あった。知り合いの女の子の話だ。
その子の会社には、仕事のほかに趣味で小説を書いているという先輩がいるんだそうだ。だが、その人は書いた文章をどこかに発表したり出版社に持ち込んだりしているわけでもない。ネットにアップロードしているが、パスワードがないと閲覧できないようにしているらしい。ただ純粋に書きたいから書くだけで、多くの人に読んでもらいたいとも、それをきっかけに小説家としての道を開きたいという欲もないというのだ。


先日読書家のその子が、非公開設定を開けるパスワードを教えてもらってアクセスしてみたんだとか。本人からはジャンルを「マジックリアリズム」と聞かされていたその作品は、想像以上にクオリティが高く、プロ顔負けで、とにかく引き込まれる作品であったとその子は興奮気味に語ってくれた。
しかし繰り返すが、それでも彼は、少なくとも今のところは、それを公に発表するつもりは全くないらしい。



僕は「彼」のようなごく少数の人をその子をとおして運よくたまたま知ることができたのだろうか。それとも、作品のクオリティはともかくとして彼のようにまったく外に発表するという欲を欠いた人は、実はゴロゴロとこの世の中に転がっているのだろうか。僕は後者の可能性の方が高いような気がする。


夏目漱石神経症の症状が和らぐということで小説を書いていたと言われている。生業にはしていたものの、まさかそのご日本近代文学の大家になろうとは(というかそのころは「日本近代文学」なんて意識してなかっただろう)思いもしなかっただろう。
アウトサイダー・アートの文脈でたびたび登場するヘンリー・ダーガーは、生涯その作品を他人に見せようとしなかったらしい。


彼らは他人の目にたまたま留まり、歴史の表舞台に引きずり出された、という言い方は少々乱暴すぎるだろうか。しかし、夏目漱石と同時代に、同じように小説を書いた人がいたならば、ヘンリー・ダーガーと同じようなことをしていた人がいたら、どうなっていたか。もはやそれはどうしようもない。現物がないし、語りべがいないからだ。



歴史は勝者によって作られる、とはいうが、敗者だって場合によってお目こぼしとして惨めに登場することを許されている。


問題は、語り継ぐ人がいるかどうか、なのだ。そしてまずは「残る」こと、なのだ。


歴史はあるだけで生えてくるわけではなく、語りべの存在によって、かろうじて、生きながらえる。そのことを身をもって知ったという実感があった。
もちろん、歴史に残ることがそれほど無条件に言祝ぐべきことなのかどうかということも、議論の余地がある。線香花火の様に一瞬のきらめきを残し、後腐れなくなく消え去るというあり方も、また一つの「美学」だろう。


だが繰り返すが、残らなければ歴史の審判すらも受けることはできない。これほど冷徹なことは、なかなかないような気がする。



そんな風に歴史についていろいろ思いを巡らせていたら、歴史の教科書の中におさめられた、それこそ教科書のあの硬質な表紙のようにがっちりとした輪郭のある「歴史」というものが、途端にブヨブヨとしてとらえどころのない、得体のしれないものに感じて気やしないだろか。「歴史」はあくまで「世界」を原材料にした加工品にすぎないのだ。


冒頭の大学内の団体の話に戻す。
そう考えると、学内にいるリア充サークルやリア充部活、例えばテニサーだとかテニサーだとかテニサーだとかは、「歴史」があるというだけでも、あながちバカにできねーぞと、思い返すのだ。
残っているだけで、それはある程度すごいのだ。そして、歴史に残っているから僕は、今日も元気にテニサーを蔑むことができるわけだ。