いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

“ポスト”シーズンをどう考えるか


昨夜、千葉ロッテマリーンズの勝利で幕を下ろした今年のプロ野球日本シリーズ。ネットを眺めていると、どうも「3位(ごとき)のロッテが日本一!?」という怒りとも嫉妬もつかない感情が吹き溜まりになっているようだ。


だが、この感情はいうまでもなく道理に合わないものだ。このクライマックスシリーズが「レギュラーシーズンの最終成績が3位以上のチーム」にて争われるという制度設計をされたその時点で、「3位でも日本一になれる」という可能性が含まれているわけだから、それを今さらウジウジいったって仕方がない。


こういう感情が噴出するのは、「働かざる者は食うべからず」という日本人的「美徳」の兆候的な表れなのだろう。怠惰であった者(頑張っても弱いことはあるから怠惰ではないんだけれど)が、一番の栄光を勝ち取るということに対する、どこか負い目があるのだろう。ただ、そうは言いつつも、僕自身そんな感情がわからんでもないから、困るわけだ。


僕は、プレーオフ制度が日本のスポーツにはなじまないものだと考えている。アメリカの大リーグでやるならまだわかる。広大な国土にチームが散在するから、2リーグ制をさらに地区別に分ける方が合理的なのだ。カリフォルニアのチームとニューヨークのチームが頻繁に対戦するのは、そりゃしんどいだろう。だが、日本だと現に北海道のチームと九州のチームがシーズン中何度も対戦しているのだから、リーグ内でもう一度プレーオフ制をする意味がよくわからん。


興行的に成功したことが(つまり「見世物」として当たったことが)、セリーグにまで波及して現クライマックスシリーズに発展した根拠になっているのだけれど、このような流れが決定的になったとき、「盛り上がるからやってんのかよ」とその功利的な的な思想の部分と、その功利的なシステムの中で勝ち上がったり負けて終わったりする応援チームに対して喜んだり悲しんだりをいちいちできるファンに対し、「マッチポンプじゃんかよ」と興ざめになった人も少なくないのではないか。感情豊かというのは今の時代においてある種の能力であるが、どこか一歩退いてものごとを見てしまう冷めた人間は、このシステムで一気にプロ野球熱から醒めたはずなのだ。


やはり、3位まで出場するのが問題なのだ(どっちやねん)。3位が日本一になるのは感情的にがまんしがたい。だからこれからは、プロ野球協約をちょこっとイジくり「2位まで」にすればいい。やはり、ギリギリ上半分に入れたチームでも日本シリーズに出ることができるかもというのは、どこかおかしい。なんで、パ・リーグの優勝チームと、セ・リーグの優勝チームでもなく、日本一のチームがいるんだ?もしやるならば、せめて2位までだ。同リーグ内の1位と2位で出場権をかけてプレーオフをするもよし、または、パの1位とセの2位、セの1位とパの2位というたすき掛け方式でするもよし。ただこの場合、決勝がセ・リーグセ・リーグという、どこかすこしお寒い展開になるおそれもあるが。


それから、僕ら観戦する側も意識を変えるべきなんじゃないだろうか。よく考えてみてほしい。たった数試合で約140試合を半年もかけて戦ったことの、ほとんど半分くらいが決してしまうのだ。これは理不尽極まりない。ポストシーズンといわれるが、クライマックスシリーズ日本シリーズはシーズン“後”の余興に過ぎないのだ。どう考えたって変ではないか。


よく「短期決戦は別物」といわれる。これは本当にそう思う。シーズン途中には考えられなかった驚くべきファインプレーが飛び出すし、反対に信じられないミスだって起きる。その意味で、本当に「別物」と考えるべきではないだろうか。たとえるならばポストシーズンは、最後まで勝ち残った人でおこなう「じゃんけん」に近い。それは、半年をかけてじっくり趨勢を見極める「プロ野球」ではないのだ。


何がいいたいかというと、結局われわれは日本シリーズを含めポストシーズンを「持ち上げすぎ」なのである。どう考えたって、長いシーズンを1位で終えた優勝チームがすごいに決まっているのだ。日本シリーズ優勝チーム(それは「日本一」とは必ずしも呼べない)を称えるならば、リーグ優勝チームはもっと称えなければいけない。日本シリーズのビールかけのビールの本数が1000本ならば、リーグ優勝チームのビールかけは2000本にしなければならない。日本シリーズの実況アナが巧ければ、シーズン中はもっと巧い実況アナに担当させなければならない。見る側のわれわれも、シーズン優勝チームについての報道は画面に向けて顔を真正面にしてしかと見届けなければならないが、日本シリーズ優勝チームはあくまで流し目で「あー、はいはいわかったわかった」という程度に把握するべきだろう。それくらい草の根の運動でこの価値観を転換するときが来たと思うわけだ。